夢見るリアリスト

第6章
裸の自分と向かいあえば
―ちっぽけな自分だからこそ、いとおしんで―

化粧―夢と現実をつなぐ架橋

 入局して五年、グウタラこの上ない私がただ一つだけ、ほぼ毎日コンスタントに一時間近くの時間をかけてきたことがある。

 化粧、である。

 ちょっと目には、テキパキしていると見られがちだが、実はひどく要領の悪い私は、化粧をして、髪を整え、服を着替えるのに、どんなに急ごうとも、一時間はかかる。更に、入浴をして、軽い朝食を摂ろうとすれば、プラス一時間半。しかも、どんなに睡眠時間が足りなかろうが、このタイムは縮められない。

 例えば、三時間しか時間がない、一時間で身仕度を整えれば、二時間は眠れるという時でも、やっぱりシャンプーはして行かないとと思うと、三十分だけ横になって、ズルズルと風呂場へ向かう。こんな自分は、果たして根性があるのかないのか、時折、自分に愛想をつかしたい衝動にかられることがある。

 さて、話を入浴から化粧に戻すが、そんな不器用な人間でも五年も同じ顔とつきあうことを余儀なくされれば、自ずから上達の道も開けようというもの。いやあ、まさに“継続は力なり”(と自画自賛……)。

 で、一つ到達した結論として、化粧とは夢と現実を同時に直視することから始まる、実にアンビバレントな行為であるということができると思う。つまり、こうありたいと願う理想の顔形をはっきり脳裏にイメージしながら、一方では、それとはかなり異なる現実の鏡の中の自分を客観的に観察するわけである。でも、現実に目を凝らせば、夢を見る意欲が萎えるのが人情。かと言って、夢に描く顔を実際の土台を無視して乗せようとすれば、不自然さばかりが目について単なる厚化粧に終わってしまう。

 でも、このジレンマを克服して夢と現実との距離を正確にはかってこそ、その間のギャップを埋めるという具体的作業に移れるのである。

 だから化粧には、勇気とパワーが必要だ。現実の自分を客観視する勇気と、それでも夢を見続けられるパワーである。

 ただ、この測量と、ギャップを埋める工事を繰り返すうちに、夢は現実へ、現実は夢へと歩み寄ってくる。(多くの場合、夢から現実への歩み寄りの幅の方が、圧倒的に大きいのだが……)ほど良く歩み寄ってくると、化粧に当初のような時間も労力も必要としなくなり、でき上がった顔にもその人なりの、ナチュラルで、さり気ない美しさが生まれてくる。 そんなことを考えていると、生きていくことそのものが、一つの化粧なのかなと思えてくる。夢を描き、それに向かって背伸びして、挫折する。挫折する度に、鏡に映った現実の自分の姿を見せつけられる。その時には辛くて、悲しいけれど、やはりそれによって自分が到達したいと願っているその場所が、本当に自分の歩んでいる道の延長線上にあるのか軌道修正をすることができる。

 女、二十七歳、化粧鏡に映る自分を客観視するのには幾らか慣れてきたが、人生の鏡に映った自分を直視するのは、正直言って恐くて仕方がない。でも、お肌の曲がり角も、曲がりに曲がったこの齢では、もはや素ッピンではいられない。かと言って、現実無視の厚化粧は自己陶酔の謗りを免れない。

 何かネズミの嫁入りのようだけれど、やっぱり化粧が上手くなるには素顔の自分を好きにならなければ始まらないのだろう。つまり一旦、全部化粧を落としてみなければいけない時に来たんだと、つくづく感じる昨今である。