夢見るリアリスト

第3章
男性、なんて素敵なパートナー
―女の課題は男の問題―

女はメスには戻らない

 まったく困ったものである。

 史上最低の出生率一・五七人をめぐる昨今の論議。いえ、何も政府のお偉方が憂えてらっしゃるょうに、一・五七人という数自体が国の存亡に関わると言うので頭を痛めているわけじゃなくて、増やす為に検討されている具体策の方向性がどうも時代と逆行しているように思えて仕方ないのだ。その方向性、まあ手短かに言ってしまえばこうである。

「おい、子供が少ないぞ。女性は家庭に戻れ!」

 何故いまだにこうなのだろう。

 確かに文明社会の長い歴史は、圧倒的に男性優位の時代だった。各言語が人間(man(英)、homme(仏)etc)=男性を表わしているのを見れば一目瞭然、要するに女性は人ではなかったのだ。“子を産み、家庭を守る”、そのことのみに全生涯を傾注するよう運命づけられた単なる雌。極端なことを言えば、こうだった。

 でも時代は変わったのである。女性にだって意志もあれば個性もある。社会の一員として自己実現をはかりたい。仕事もしたい。人間なら当たり前のこうした欲求を女性が口にし、努力次第では実現できる時代にやっとなったのである。

 だが考えてみれば、この変化は実に大したものだったのだ。何故なら、女性が単なる雌から雌的人間になるということは、つまりこれまではすべて雌がオンブにダッコさせられてきた負担を、女性が社会と関わるようになった分だけ男性や社会福祉が肩代わりしなくてはたちゆかない世の中になったことを意味していたのだから。

 けれど男性も社会も、女性の変化が即ち自分たちの変化であることにこれまで気づかなかった。いや、気づこうとしなかった。そりゃ誰だって自分の負担が増えるのは嫌に決まってる。「女性が人間回復するのは構わないけど、僕がそれによって被害を被るのはご免だね」と涼しい顔をしていた。そこで女性は、これまでそれだけで手一杯だった出産・育児・家事といったカバンと、更に加わった勉強・仕事というカバンの山をひとり前にして腕組みしてしまった。「何かを取って、何かを捨てなければとても私だけじゃ運べない」そう考えた時、彼女達の多くは家庭という古いカバンより仕事、という新しいカバンを手に取った。雌となるか、人間となるかの二者択一をせまられて後者を選んだ彼女達を誰が責められよう。結果、出産率は当然のことながら低下。そこで初めて男性や社会は気づく。

「シマった! とんでもないことをしてしまったぁ」(こんなことなら女性の人間回復なんて認めるんじゃなかった)と嘆いたって後の祭り。もうこの流れを押し留めることは出来ない。

 なのに世の中はまだ、女性が自らの意志で選択し積み込んだ高学歴や仕事上のキャリアというカバンを引きずりおろしてまで、出産・育児マークの古カバンを運ばせよとうする。“女子大生亡国論パート2”のような時代錯誤的見解を述べる閣僚がいるかと思いきや、先日の朝日新聞の『論壇』(一九九〇年七月十六日付)では、れっきとした精神科医が“女性の社会参加で拒食症増加”と堂々と論じていた。拒食症の主たる原因を社会進出の難しさからくるストレスに限定してしまう論旨も短絡的なら、だから女性は家庭に戻ってこそという幸福的結論もアナクロの極み。どうして、女性だけにそんなストレスを与える遅れた社会制度そのものを批判しようとしないのか。他にも一人っ子や幼い時から保育園・託児所に預けられた子供達は、おしなべてそうでない子よりも三文安いと取られかねない一部の医師たちの発言は常に独断的で、国策的な臭いが漂う。

 でもそんな小手先の策を労しても大河の流れに棹さすようなもの、事態は何も変わらない。流れに逆らって女性を家庭に引き戻すより、流れに沿って男性を家庭に帰してあげる方がよほど自然だしたやすいのではないだろうか。余りにも激烈な勤務で企業戦士となってしまった男性にも人間回復を促すことが出生率向上に向けての最善策と私は思うのだが。