夢見るリアリスト

第3章
男性、なんて素敵なパートナー
―女の課題は男の問題―

なんてったってカラヤン

「カラヤンのコンサートに行きませんか」

 さる高名な先生から、ある日お誘いを受けた。

 ご本人の名誉の為あえて実名を伏せるが、このE先生、世界に冠たるキリスト教作家であるにも拘らず、玉に傷なのは人をかつぐのが三度の食事よりお好きだということ。

 あのカラヤン、しかも今度の来日が最後ということでチケットには何倍ものプレミアムがついているというそのコンサートに、いやあ願ってもない僥倖と欣喜雀躍したまでは良かったが、ここで、はたと気がついた。

(待てよ、何かある)

 と、畳みかけるように次のような先生のお言葉。

「で、その際にだなぁ、実は僕がロンドンで君の為に買ってきた豪華衣装を着てはもらえんだろうか。いや、もちろん僕の選んだものだから、色や形など君の好みに合わなければ無理にとは言わんのだが……」(ほーら、おいでなさった……)

 でもなんてったってカラヤン、たとえ火の中、水の中である。

素知らぬ顔で、笑顔を作り、

「わあー、私の為にわざわざ? 感激です。もう喜んで、ぜひ着させていただきます」

 この無邪気な喜びように、先生大いに満足なさって、

「そうかね、そうかね、着てくれるかね。これで僕も、はるばるロンドンから持ち帰った甲斐があったと言うものだ。

 だが、忘れられてしまうと困るから、そうだ、一筆残しておいてもらうとしよう」

 てなわけで、私は下記の通りの誓約書を、書くハメにあいなった。

   誓約書

 “私、畑恵は、先生がロンドンで購入なさった豪華衣装を、必ずや身につけ、お目にかけることを誓います。なお、これに反した場合には、いかなる男性とも婚姻関係は結びません”

 最後の一文をつけ加えさせるところなど、E先生の趣味の良さがにじみ出ていること、この上ない。

 この日、先生はすっかりご満悦で、このメモ用紙をきっちり四つに畳むと、大事そうに胸のポケットにしまわれ、鼻歌まじりに帰ってゆかれた。

 それから数日も経たぬうち、朝方、先生から催促の電話をいただいた。

「君、ちっとも取りに来んが、まさか忘れたわけではないだろうな」

「ハッハイ、勿論です。では、早速これから伺います」

 もらいたいという催促ならよくある話だが、早くもらいに来いというのはあまり聞かない。ウーン、ますます怪しい。

 鬼が出るか、蛇が出るか、内心ビクビクしながら、先生の事務所のベルを鳴らすと、意気揚々とご本人がお出迎え下さり、

「なぁんだ、わざわざ足を運んでもらうのには及ばなかったのに……」

 と、労いのお言葉。先ほどの電話との論理矛盾に、いささか首をひねりながらも、(まっいいか)と勧められるまま、ソファに腰をおろす。

 で、いよいよ、問題の豪華衣装とのご対面となるわけだが、もうこの間、先生は始終ニヤニヤのし通し。完全に、気になる女の子のおさげを引っ張って泣かせていたガキ大将の頃に一人でタイムスリップしている。

「しかし、君もバカだなあ。わざわざ、こんなもん取りに来んでも……」 と、今にも吹き出さんばかりで、肩先は笑いをこらえる為小刻みに揺れている。

「まっ、とにかく、よくいらっしゃった。慎んで、このロンドン製豪華衣装を進呈しよう」

 奥の書斎から、恭々しく先生が持って現われた包みは、意外にも小さく、大きめの封筒くらい。ネイビーブルーの袋を手にとると、ゴールドの飾りの文字で“Sulka”と記されている。ネクタイ等で世界的に名の通った、高級洋装店だ。

 包みを受け取って袋の口からそっと右手を滑り込ませると、なにやら滑らかにして柔らかな感触が指先をくすぐる。思い切って、中身を取り出す。すると、なんとこれが目を射んばかりに鮮やかな、緋色のスキャンティ。スキャンティとは、要するに使用布の極端に少ない、女性用下穿のことなのだが、しかも、これが真赤な総レース使いになっている。もう艶っぽいのをはるかに通りこして、ほとんど不気味。

「身につけて、僕に見せてくれるという約束でしたよね」

 先生、右手には既にしっかり先日の“誓約書”を握りしめてらっしゃる。だがここで慌てては、まさにあちらの思う壷。

「まあ、とっても綺麗じゃないですか。いえ、もっと大変なものだったらどうしようかと思ってたんですが。正直、安心しました」

 この一言が、先生の戦意を更に高揚させてしまったらしく、

「君も負けず嫌いだなあ。身につけるんだぞ」

「身につけます」

「スカーフや、ネッカチーフにするなんて、なしだからな」

「そんなことしません」

「で、着たら、しっかりお目にかけてくれるんだろうな」

「ええ、しっかりお目にかけます」

と引くに引けずに、タンカを切って、この日は早々にお暇をした。

 さて、一口に身につけると言っても、かついだつもりの先生が一本とられたとシャツポを脱いで下さるくらいの身につけ方でなければ、女がすたる。

 帰宅するや自室に引きこもり、そのスキャンティなるものを(こうして手にとってみたことは、かつてなかったので)、まるめたり引っ張ったり、まずはつぶさに、その構造を観察した。名案も浮かばぬまま、ためつすがめつ現物とにらめ。こをしていると、緋色の毒気にあてられたのか、なにやら自分がひどく惨めに思えてくる。

 だが、気をとり直し、改めて見直してみると、ウン、なかなかに美しい。さすが、ロンドンの老舗の品だけのことはある。そうだ、下着と思わず一枚の布と思えば、違った発想も浮かんでくるかもしれない。

 そこで思いついたのが、ヘア・ネットへの応用。髪をシニヨン(後頭部でまとめて、おダンゴを作るヘアスタイル)にして、それをこの豪華衣装で覆ってみるというのはどうだろう。ただし、その際のポイントは、おダンゴの大きさと型、何しろ同じ丸みのあるものを覆うとはいえ、いささか形状が違い過ぎる。私の技術では手に余るので親友の美容師の女性にソッと事情を話すと、笑い転げながらも心よく協力に応じてくれた。

 さて、当日を待つ間にも、どうだね、つけてみたかね? などと、先生から敵情偵察の電話が入る。その度にこちらも、

「ええ、でもやっぱり欧米のご婦人用だとどうも私の丸みには合わないんですよね。レースの脇から、黒いものが、はみ出してしまったりして……」

 などと期待をもたせるのに、一苦労だ。

 こうして、いよいよコンサートの当日。

「今夜は、どうもお招きにあずかりまして」

「挨拶もいいが、つけては来たんだろうな」

「ハイ、ちゃんと約束通り……」

くるりと背を向けた私の後姿に、紛れもない、あの緋色を認めた先生、一瞬言葉を失い、視線を落としてしまわれた。しばし、沈黙のあと、苦笑いとともにつぶやかれた独白は、

「しかし、君もようやるなぁ……」

 あの晩、六本木のサントリーホールを埋め尽した紳士、淑女の中に、よもやランジェリーをかぶった娘が珍入していようとは、ねっ、誰も気づかなかったでしよう。