夢見るリアリスト

第1章
真実、伝えたいのはただそれだけ
―マスコミの中、自分を見つめて―

真理という名の盆栽作り

 固く扉は閉ざされている。そこに貼られた幾枚かの封印。上から順繰りに剥がしてゆく。最後の一枚をとる手ももどかしく、門が押し開かれてゆく。

 ここでうなされて目が覚める。同じ夢を三度続けて見た。きっと明日の晩も見るだろう。なぜなら、いまだに私はあの時スタジオで自分がどういう言動をとるべきだったか、はっきりした答えが見つかっていないから。

 謝るべきだったのか? だとしたら何をどう謝るのか? 少なくとも何事もなかったように見て見ぬふりをしたのは重大な過ちだった。では果たしてどうコメントすれば良かったのだろうか?

 ある日の報道特集番組。テーマは東独の秘密警察。民主化の波が訪れるまでひたすら厚いヴェールの下に隠され強大な権力を欲しいままにし、密告、盗聴、郵便の開封と市民から思想・言論の自由を奪ってきたこの組織の全貌にせまるなかなかの意欲作だった。

 組織自体は去年一杯で一応解消したとはいえ、正式メンバーだけで八万五千人、密告者は二十万人とも言われるこの秘密警察について積極的に答えたがる人は今も少ない。仮に密告によってその人生をズタズタにされたと訴える人がいても、彼の被害を裏づけてくれる傍証に応じてくれる人がいない。皆一様に口を閉ざしてしまう。

 そのような困難な取材状況の中で粘り強く拾い集めた声によりでき上がったVTRは

秘密警察の非情で執拗な手口に加え、隣にいる者誰しもが密告者となりうる陰鬱で殺伐とした社会状況を静かに語り説得力があった。

 問題は、そのVTRの間にセッティングされた東ベルリンとの生中継だった。ディズニーランドがすっぽり入ってしまうほど広大な敷地の秘密警察前からリポートは始まり、クライマックスは世界で初めて長官ミルケの執務室にカメラが入るというものだった。

 冒頭の夢のシーンのようにして、リポーターが封印を解き中に入ってゆく、ところがこの彼の足取りの軽さ、どう見ても初めて踏み入った者の歩調ではない。スタスタと何の躊躇もなく廊下を曲がり、いくつものドアを迷うことなく選んで進んでゆく。決定的だったのがミルケの部屋の中。なんとライティングがされており、ご丁寧にその照明機材までもがしっかり画面に映ってしまったのだ。

 確かにミルケ長官の部屋が、テレビで公開されるのは今回が世界初だった。これは事実。そして何分時間に限りのある生中継、何度もリハーサルを重ね何十秒あったらあの角を曲がることができ、更に何秒でこのドアを押し、最終的な立位置に何分何秒で到着できるのかを確認しなければとても放送は成り立たない。これも事実。

 だとしても、いやだとすればなおさらあの封印は何だったのか? なぜする必要があったのか?

 “世界初”ということを印象づけたいという気持ちはよくわかる。そしておそらくあの封印はドアに何度も貼っては剥がされた跡があったことから見て、さほど厳密な意味あいを持ったものではなかったのだろう。そう百歩譲った上でも、やはりあの封印はおかしい。

 限られた放送時間、限られた行数の中である事実を伝えていこうとする時、そこでは必ず情報の取捨選択が行われる。だからそれは事実に近いものであっても決して事実そのものではなく一つの物語に過ぎない。

 しかしそれができる限り事実に近づくよう私達は取材を重ね、編集に心を砕く。ちょうど盆栽の松があれだけ小さくても巨木の松のエッセンスは失わない、いやむしろそれこそが松の核心を体現しているように。

 だがその作業の中で決してしてはならないことがある。ない情報は付与しない、ということ。たとえそれが松の葉一本でも、接着剤でくっつければその盆栽はちょっと目形は良くてもそれはあくまで作り物、存在価値を失う。

 それがわかっていながら、何故私はスタジオで、「今の封印はおかしかった」と勇気を出して言えなかったのだろう。小さなウソを率直に認める一言で、残りの大部分の真実を救うことが出来たはずなのに…。私がスタジオにいさせてもらえる存在理由は、まさにそこにあったはずなのに…。当分、うなされて然るべき失態である。