夢見るリアリスト

第1章
真実、伝えたいのはただそれだけ
―マスコミの中、自分を見つめて―

向けられた銃口

 五月三日、憲法記念日。その日、今にも泣き出しそうな空模様だった近畿地方は、昼過ぎから本格的な雨となった。

 傘のないまま、阪急電鉄・四条大宮駅にとりあえず駆け込む。時刻は午後四時を少し回ったところ。つい今しがたまで京都・化野で一緒にロケ撮影に当たっていた地元スタッフが教えてくれた乗り継ぎ順を、心の中で反復する。

(大阪方面行に乗って、十三という駅で神戸線に乗り換えて下さい。いいですか、十三で乗り換えることだけ忘れずに……)

 プラットホームに降りると、ほどなくして“急行”の到着。行楽客とおぼしき家族連れ、二人連れの少々火照ったょうな笑顔やさんざめきとともに車内へ流れ込む。重いボストンバッグをやっとこさ網棚へ乗せれば、これでひと安心。

(もう黙ってたって、西宮へ着くんだ……)

 暮れなずむ車窓にぼんやりと目をやりながら、肩にかけたバッグから一枚の新聞の切り抜きを取り出す。今朝の朝日新聞、十七面。
『凶弾に市民は負けぬ』

 白抜きのタイトル文字が躍る。兵庫県西宮市の朝日新聞阪神支局が散弾銃を持った男に襲われ、小尻知博記者(当時二十九歳)が死亡、もう一人の記者も重傷を負うという、あの事件からまる三年。紙面には事件を風化させることなく言論、表現の自由を堅持していこうとする人々のコメントや活動報告が掲げられるとともに、本島長崎市長銃撃事件や先月のフェリス女学院学長宅に短銃二発が撃ち込まれた事件など、その後の打ち続くテロ行為に対する言及も目立った。

 中でも、京大経済研助教授・浅田彰氏のコメントは、テロの「声なき暴力として突発するとらえがたい怖さ」とともに「ボディーブローのように、じわじわと確実に効いてくる厄介さ」に着目し、その効果が長期的に見ればいかに明らかで根深いものであるかを実に簡潔に指摘していた。特に阪神支局襲撃事件後の三年を振り返って「記者を撃った散弾銃は、全国のマスメディア全体に飛び散り、やがて洪水のような『天皇報道』となってはね返っていったようにも見える」という一言は、襲撃事件発生時と同様、天皇報道のさ中もマスコミに身を置いていた者として、深く胸に突き刺さった。

 そう、小尻記者を撃ち抜いた銃口は、マスメディアに関わる我々全員に向けられたものだった。そして本当はその事を(意識下においてではあるが)最も強く感じていたのも他ならぬ私達マスコミだったのだ。そうでなければなぜ私達は、“天皇、重体”という一報のあと、あれよ、あれよとい間に一つの渦潮に引き込まれてゆく日本丸の航路に、ちょっと待ったと棹ささなかったのだろう。もちろん、行動を起こした勇気ある人はいただろう。だが、大部分は起こさなかった。でもまたその中の多くが、起こさねばと内心臍をかんでいたのも事実なのだ。

 病状急変を他社に一歩でも先んじて伝えようと、ひたすらカメラの前まで走り、リレーバトン宜しくマイクを把んで喋り出す記者。一心不乱に駆け抜けたように見える彼でさえ、当時胸の内をポツリこう語っていた。

「十年か二十年かして、このVTRが再生されたら、俺も立派な国粋主義者だな」

 淋しく、虚しく水割りグラス片手に笑ったその横顔、それはまさに私自身の姿でもあった。あれだけ惑いながらも、少なくともオン・エアではそんな迷いは曖気にも見せず、「体温・血圧・脈拍数」の三点セットを正確に読み上げることにこれ務めて天皇報道の一翼を担ってしまった私。何かの影に確実に脅えていた私目身。

 踏み切り脇にひっそり佇む、レンガタイル貼りの小さなビル、その阪神支局一階の小部屋に、小尻記者の祭壇は祀られていた。焼香を済ませ、手を合わせると涙がポタポタと落ちて指の間を伝った。犯人への憎しみが半分、でももう半分は何もできていない自分の不甲斐なさに対する悔しさに対して……。

 白い祭壇には、ハングル文字が目についた。生前、小尻記者は在日韓国人の指紋押なつ問題に取り組んでいたと、どこかの記事で読んだことを思い出した。今の私のなすべきことは涙を流すことではなく、冷静に息長く、ペンと唇で世に問いかけてゆくことだと霊前教えられた。