夢見るリアリスト

第1章
真実、伝えたいのはただそれだけ
―マスコミの中、自分を見つめて―

リアリティとプライバシーの間で

 「(そんな結果になるとは)考えなかった」

 それが少年達の答えだった。

 東京・綾瀬で起きた女高生コンクリート詰め殺人事件。その論告求刑が、一九九〇年五月二十一日、行われた。「考えなかった」ことが引き起こした罪に対する罰として、主犯格の少年に無期懲役が求められた。四十日間という長きに渡って、性的暴力を加えられた上、食物もろくに与えられず、トイレの使用も許されず、執拗に殴る蹴るの暴行を受け続けた末には、オイルを垂らされた足に火をつけられたという彼女。その地獄の苦しみはいかばかりであっただろうか。

 だが彼女への辱しめは、実は亡くなった後も続けられたのだ。
通勤電車の車中に翻る週刊誌の中吊り広告。スキャンダラスで過激なタイトルの下、一人の少女が微笑む。つぶらな瞳が印象的なアイドル系美少女。被害者の名前と顔は、途中からマスコミ各社が公表をストップしたとはいえ、少年達が犯したその残忍極まりない所業とともに全国へ知れ渡ってしまった。

 あの中吊り広告の写真と目が合うたびに、無残な形で命を奪われた上こうしてなお愛娘が晒し者にされているご両親、ご家族のお気持ちはいかばかりかと胸が詰まったのは、決して私ばかりではないだろう。

 報道のヴィジュアル化が進む一方の今日、マスコミは読者・視聴者のニーズに答えようとより生々しい映像、よりインパクトのある場面を求めてしのぎを削る。幾百幾千の言葉を重ねるより一枚の写真、一瞬の映像の方がリアリティもあり説得力を持つ、そうした場合が多いのも事実だ。

 だがその結果、当時者のプライバシーを侵害してしまう危険性もより高まってきた。真実にできるだけ近づきそれを知らしめたいという願望と、だからといって相手のプライバシーを冒すことはしてはならないという原理原則。その相剋に、マスコミに身を置くものであれば誰でも苛まれているはずだ。

 例えば、いま私が取材を続けている人工妊娠中絶の問題。当然、番組の主眼となるのは中絶体験者が自らの心情を吐露する場面だ。

 どれだけ彼女達が悩み苦しみ抜いた上での選択だったのか、彼女達がこの先も負ってゆく悲しみの大きさはいかばかりであるか。それを訴える為にはやはり彼女達の“顔”が欲しい。

 単一に泣きや涙が欲しいというのではない。彼女達が真摯に生きている女性達であることをその顔つきから読み取って欲しいし、自らの人生を自分自身で選び取ったその爽やかで晴々とした表情もぜひ伝えたい。

 けれどもその前に立ちはだかるのは、やはりプライバシーの問題である。いくらギリギリの選択だったと繰り返したところで、世間が彼女達に投げかける冷たい視線は変わることはない。

 望まない妊娠をしてしまった女性が自分とお腹の子供との将来を現在の社会環境の中で熟慮した末やはり産めないと判断したのであれば、他人がその個別の事情も知らぬままに、ただでさえ心身ともに傷ついている彼女達を責めることはやめるべきではないか。そう訴えるための番組だからと言って、すぐにそれが効を奏して世間の中絶に対する認識が変わるとも思えない。

 顔を画面に出してもらった結果彼女達につらい思いをさせてしまうことが予想できる以上、本人が主旨を理解し、しかも積極的に協力してくれるというのでなければ、私にはたとえプロとしての認識が甘過ぎるとなじられようと、彼女達に顔出しを強く要求することはできなかった。 先日某テレビ局で、親に捨てられた子供がその母親を訪ね歩くというドキュメンタリーを放送していた。主人公の男の子の顔にカメラはせまる。その子の表情そのものが命とも言える番組だった。だがそのことによってこの男の子が捨て子である事実は全国に知れ渡ってしまったのだ。

 誰もその子のプライバシーを、将来を慮ってあげる人がいないことをいいことに、判断能力も備わらない子供の顔をこの番組は何の配慮もなく流し続けた。この子の将来において、自分達が放送した映像がどれだけの影響を投げかけうるかをこの番組のスタッフは考えてみたのだろうか。

「考えなかった」という言い訳は、マスコミには決して許されてはならないのだ。