アムステルダム発―東京行。機内で新聞を広げると涙がグーッとこみ上げ、ポトポトとインクの文字を湿らせていった。
本島長崎市長が、テロリストに狙撃されてから一週間。その病床からのメッセージが掲載されている。
そう言えば、この事件の第一報を知ったのがアムステルダムに向かう際の機内だった。あの時も涙が溢れた。暴力で言論を圧殺しようとするその卑劣極まりない試みに、ただただ悔し涙が止まらなかった。だが今回の涙は、前回とはちょっと違う。もっと穏やかで、むしろ感動的でさえあった。
口から血が溢れ出し、薄れてゆく意識の中、自分はもうこれで死ぬんだなあと覚悟しながら本島市長は何を思ったか。弱き者、貧しき人々の為に、自分は果たして力を尽し得たか、それを自らに問うたと言う。以前からクリスチャンとは聞かされてはいたが、あぁ氏はこうした思いを全うする為、脅迫に屈することなく今回の凶弾に倒れたのだと改めて知らされた。
誰の為に、それを行うのか。このことは、人間が行動していく上での最終的な指針なのではないかと、私は報道という仕事に携わるようになってしばしば思う。というのもこの業を曲がりなりにも続けていると、なぜこの事実を世に知らしめなければいけないのか?なぜこの人にマイクを向けなければいけないのか? と考えてしまう場面が余りにも多くて、しまいには自分達マスコミの存在理由そのものが「?」となってしまうことが、ままあるからだ。
例えば、先日、私が担当している報道番組の中でも是か非かを巡って論じられた実名報道。事実をリアリティをもって人々に伝えてゆく為に実名であることは不一可欠、マスコミは警察の動きをチェックする役目を担っている以上匿名報道はかえって危険と、いくらその必要性を説かれても、やはり今一つ「?」は拭い切れない。真実をどこまでも追求し、明らかにしてゆくことは、報道の何よりの使命だと思うし醍醐味だとも思うが、その結果その報道内容が何人かを精神的・肉体的に苦しめ、しかもそれを補って余りある意義を社会的影響という点から顧みて見出せなかった時、私達はその過ちをどうやって償えばいいのだろう。
番組の中では、えん罪で逮捕され家族も財産も失うこととなった男性がたとえ無実が明らかとなった今でも、一度実名写真入りで大々的に報道されてしまった以上、も道う一つまともに顔を上げて歩けないと訴えていた。ここまで悲惨な例はたとえ稀だとしても、大なり小なり報道被害を受けた人は数え切れない。そして何より恐しいことは、私達マスコミは自分達が傷つけてしまった人々の怨嗟の声を耳にする機会も滅多になければ、しかもそのことで裁かれることもまずないという事実である。もしそうしたことがあり得たならば、私達は自分達のもつ社会的影響力の大きさを功罪とともにもっと明確に自覚できるだろうし、少なくとも、売らんかなで人権は二の次三の次といった一部の報道体制への強力な抑止力とはなるだろう。
誰の為に報道するか。去年、サンフランシスコ大地震を取材した際も、あちらのアナウンサーに、「私は、死者の数や震度などといったことより、今生きている人に一番役立つことをまず最初に伝えたいと思って放送した」と語られた時、木槌でガーンと頭を殴られたようなショックを受けた。が、その後一つ一つのニュースを伝える時、自分の意識がどれほど改まったかと自問すると、恥かしさに顔が熱くなる。ただしかし、今回のように言論の自由そのものが危機にさらされた時こそ、自らの姿勢を厳しく問い直すべき良い機会ではないか。私の留守中、わが家にもこれまでにない不穏な電話がかかったようだ。だが、誰の為にということを考えたら、今毅然とした態度を取らなくてどうすると、寒風の中タラップを降りながら、思いを新たにした次第である。