夢見るリアリスト

第1章
真実、伝えたいのはただそれだけ
―マスコミの中、自分を見つめて―

わが慕しのNHK

五年目の決意

「畑くん、君には福岡に行ってもらいます。福岡は……」

「お言葉の途中ですが、実はその前に、私も受け取っていただきたいものが……」

 アナウンス室長が差し出した一枚の紙の上に、持ち歩き過ぎて少々くたびれた一通の封筒が重なった。

 “退職願”

 平成元年七月二十一日。午後一時を過ぎた夏の日射しはサッシの枠に鋭く反射して、一瞬、私の目を眩ました。

 辞表提出のこの一件、人呼んで、“畑恵の燕返し”。

 だが、何も私だって好きこのんで、こんな過激なシチュエーションを作り出したわけではない。なにしろ退職を決意した春頃から、

“別れの極意は、畳の目一つずつ”なる山口瞳氏の箴言をシステム手帳の隅に書きつけるなど、ただひたすら穏便にフェイド・アウトすることのみを乞い願って、機を窺ってきたのだ。

 思案の末、七月初旬にしたためた文書の日付は、七月二十五日。二十四日夜、参院選の開票結果を受けて生放送されるNHKスペシャルが終われば仕事も一段落し、翌日からはオフ。周囲への迷惑も最小限で抑えられる。

 ところが、二十一日の転勤内示日に突然の呼出し。気持ちは既に辞表として、私のバッグの中で固まっているのに、このままハイハイと話を承ってしまっては人員の手当てなども遅れ、影響を与える範囲も拡がってしまう。ならば、やはり今ここでお渡しするのに如くはなし。 というわけで、意に反して冒頭の如きドラマチックに過ぎる幕切れとなってしまい、更にその後の展開は、各週刊誌の方々の旺盛な創造力と推理力が連鎖反応的に刺激しあい、蜂の巣をつついたような大騒動となってしまった。本意はどうあれ、世間をお騒がせしてしまったことは事実、申し訳ありません。ただ歪曲されて喧伝されてしまったことについては、いくらかの修正を加えなくてはならない。そこで、別れた相方を語るには少々時機尚早と思いつつも、今筆を執る次第である。

 まずは、読者の方の最大の関心事、

“何故NHKと別れたか?”

 この点に答えなければなるまい。

 一言ではとても言い尽せぬことを、敢えて言わんとするなら、

「余りにも、NHKへの思い入れが強過ぎたから」としか答えようがない。

 在職中の五年間、私にとってNHKは、仕事の機会を提供してくれる場というよりは、理想の師、理想のパートナーに近かった。自分のように青臭い放送論を真顔で論じてしまう世間知らずを、理解し、受け入れ、ここまで育ててくれたのは紛れもなくNHKだ。就職時、おそらくNHKをおいて、これほど非効率的な理想主義者を採用してくれる企業はなかったに違いない。

 だが、時代の流れの中でNHKも大きく体質の変革をせまられてくる。志や本質論を

云々する不経済な人間は、誠を尽せば尽すほど愛するNHKの足を引っ張ってしまう。とはいえ、ここで自分を曲げてしまっては、“美人”“東大”“帰国子女”のマスコミ合格三大条件揃いぶみの女子大生があまた押しかける中、いずれにも該当しない私をわざわざ職員として採用してくれた、当時のNHKの方々の思いを無にすることになる。

 では実際、五年前の出会いがどのようなものだったか。まずその辺りから、お話してゆきたい。

何故私がキャスターに?

 昭和五十八年十一月六日。

 チャコールグレーのパンツルックに、ショートカット。そんなリクルートらしからぬいでたちで、私は、NHK放送センター60Xstの前に立っていた。一枚の写真をもとに行う一分間の擬似リポート試験。まもなく、私の順番だ。

 時刻は、十二時四十分過ぎ。先刻より、その試験会場とつながった控室に、昼食用のお弁当が次々と運びこまれている。他の試験場から、予定を終えたNHK職員が続々と控室に消えてゆく。そう言えば、私も空腹感が募ってきた。

(ならば、この写真で)

 と、幾つかの写真の中から機内食を写した一枚を選び出し、私は60Xstのマイクの前に立った。

「さて、時刻は正午を大きく回りました。ついては、私はおなかが空いております」

 ここで、試験官全員、大爆笑。よく見ると、私を見つめる人数がやけに多い。試験を終えた他の会場の担当者も相当数混じっているらしい。

「皆様は、先ほど運ばれたお弁当を食べて腹ごなし気分で、こちらを眺めて笑っておられるのでしょうが……」

 以下、爆笑の渦、渦。

 飽食と飢餓問題という、もっともらしいことでオチをつけ和やかなリアクションのままリポートは終了したが、果たしてあんな乱暴な物言いをして、NHKの紳士諸氏はどう受け取ったやら。不安と緊張で60Xstを後にした私の背を、試験官氏の一人が、ニコニコ顔でポンとたたいた。

「いやあ、畑くん、実におもしろかったよ。ただね、あのお弁当、僕達もまだ食べてないんだ」

 背筋をツゥーと冷汗が伝ったことは、言うまでもない。

 更に、このリポート試験に続いては、重役面接。

 ここでも、「NHKのお固くて、官僚的と思われがちな先入観を払拭すべく」などと不躾な言葉を使った上「節度と良識を保ちながらも、楽しく親しみ易い番組を作ってゆきたい」

 などと豪語し、重役方の失笑を買ってしまった。

 それでも、NHKの懐は海よりも探し。

 ほどなくして、合格を告げる電話のベルがわが家に鳴り響いた。

 入局後は、『日本列島朝いちばん』『金曜お天気博士』『おはようジャーナル』など、大きな番組を、次々と担当させてもらった。どのスタッフも、総じて、私のような青臭く生意気な新人の意見にもよく耳を貸してくれ、議論も、双方が納得するまで徹底的に尽してくれた。時には、ワン・カット、ワン・コメントをどうするかで大激論となり、一晩互いに相譲らず、夜が明けてしまうこともあった。けれど、必ず、侃々諤々やりあったディレクター氏ほど、また次の番組の時に声をかけてくれた。

 そんな不器用な経験を繰り返しながら、それでも私はデコボコ、クネクネの道を、自分なりの歩き方と歩幅で歩かせてもらっていた。

 ところが、ある日、その凸凹道の脇に、一本の高速用舗装道路がビューンと通ることになる。

 昭和六十一年十月。当時、『NHK19°ニュース』を担当していた黒田あゆみ、山田敦子両アナが相前後してご懐妊となり、繰り上げ当選的に、その直後大阪から戻った杉浦アナと私が、二人の後任をおおせつかったのだ。

 確かに、大番組。話を聞かされて嬉しくなかったと言えば、ウソになる。けれど、高速道路は自分の足では歩けない。勝手に立ち止まることも、寄り道すらもできない。こんな若輩で、実際にニュースを読んだ経験もほとんどない自分が担当するメリットは、一体どこにあるのだろう。

 第一私は、入局前から、NHKの権威主義的なイメージを払拭したいと公言して採用された人間だ。そんな私が、NHKの中で最も保守的なフォーマットを踏襲している19°ニュースのキャスター席に坐ってしまう。なんとも運命というのは、皮肉なものである。

 この人事の発表と同時に、舞踏会への招待状宜しく、雑誌、スポーツ紙などから取材申し込みが舞い込む。新しい仕事への意欲と抱負を元気良く語って欲しいという記者の方々の取材意図は痛いほどわかるのだが、なにしろ本人の胸中は当惑と“?”で一杯の為、今一つ答えに覇気がない。

「畑さん、なぜ、自分がキャスターに選ばれたと思いますか?」

 こんな質問をされても、とりあえずキャスターというご大層な呼び方だけは勘弁して下さいとおことわりした上で、

「ウーン、若いからと申し上げるしか、理由が見当たらないんですよね」

 という答えになってしまう。これじゃあ、なんとも愛想のない、つっぱった娘だと思われかねない。それ以上に、これでは記事にならんと困惑する同業者の顔を目の当たりにすると、胸が痛む。そこで、何かフォローしなければという思いにかられ、

「でも、だからこそ、若いだけで読ませてもらってるとは思われたくないんです。若さがあるからこそ伝えられるニュースを、微力ながらでも作ってゆければ。その為には自分もできるだけ現場へ足を運び、自分の目で事実を確かめるように……」

 などと、多分に優等生的かつ模範的な答弁を並べてしまう。が結局は、今の自分が19°ニュースを読ませてもらうのは、やはり若いからに他ならないという帰結に、話は再び舞い戻ってしまうのだった。

ああ、自分が崩れてゆく……

 なぜ、私なのか?

 その疑問が解けぬまま、一年近くが過ぎて行った。

 もっとも、一週間の大半は、平行して担当していた『おはようジャーナル』や『日本列島ただ今6時』のリポートなどに費やされていた。自分で現場に出かけ、取材し、伝えるという凸凹道の作業は、ずっと続いてはいた。

 しかし、その一方で、私は確実にニュースを担当した当時の、あのいたたまれなさを

キャスター席で感じなくなっていった。これはとりもなおさず、自分が19°ニュースを読める何か特別な人間であるという誤解が、私の中に芽生えてきたことに他ならなかった。19°ニュースを担当していると、確かにオイシイ思いをすることは多い。二十代半ばでは、到底会えない人に会え、見られないものが見られる。ともすると、自分なりのニュースを模索するなどと小難しいことを言わないで、ひたすら無難に務め上げ、現在のこの快適な環境の維持に努めてしまおうかという誘惑にかられる。

(このまま行ったら、私は早晩、毛嫌いしていたはずの権威なんてもののお先棒を担ぐことになるんじゃないか)

 そんな漠たる不安が、ニュース担当一年を過ぎたあたりから急速に胸の中で拡がっていった。

 そして、この時期、いくつかの外的要因もその不安に拍車をかけた。中でもショックだったのが、木村太郎氏の辞職だった。

 木村氏とは、NHKの廊下ですれ違う際挨拶を交わす程度で、個人的にお話したことは

なかった。だがブラウン管を通じて、氏の海外要人などに対するインタビューを見るにつけ、豊富な経験に基づいた適確なやりとり、特に日本人には稀有なほど辛口なその突っ込みに、拍手を送り続けていた。視聴者が知りたい部分をえぐり出してくれる真のジャーナリストとしてのキャスターを、わが局は擁しているんだなぁと、つくづく誇りに思っていた。

 その木村氏が退職を決めたと聞かされ、しかも氏自身、もし現場に戻りたいという意向がかなえられれば、まだまだNHKに留まる意志を持っておられたことを氏の手記で知った。なぜ、こんなに必要としあっているはずの両者が別れねばならないのか、NHK職員としてよりも、木村氏、NHK双方のファンとして、事態の不条理に胸が痛んだ。

 だが、不条理を一人憂いていたところで何も始まらない。まあ、これも時代の流れというのなら、そこに桿さす行動を何か起こさねば。

 そう思って機会をうかがっていたところ、

「ねえ、ちょっとアドリブで一言喋ってくれない」

 とニュースのスタッフから持ちかけられたのが、例の十五秒コメントだった。

 この“十五秒”、かなり派手々々しく、かつ歪められて伝えられてしまった為、今更コメントするのも内心忸怩たる思いなのだが、曲解されっ放しも悲しいのでひと通りの経緯のみ述べさせていただく。

小さな反乱

 昭和六十一年秋から週末の夜七時のニュースを担当してきた私は、六十三年の春からは、午後六時四十五分の関東ローカルニュースもあわせて受け持つこととなった。

 このローカルニュース、週末のみ展覧会などの告知をする“おしらせ”のコーナーがある。“おしらせ”の前は、天気予報。そこからダイレクトに画面がつなげない為、カメラは一旦私のバストショットに戻る。その際、なにか季節感を折り込んだ雑感コメントをアドリブで言って欲しいというのが、局からの要請だった。

 無機的なトーンのニュースに、フッと一瞬、血の通った息吹きを。高速道路をひたすら突っ走る中にも、週末くらい数十秒、寄道できるゆとりがあってもいいじゃないか。

 私に十五秒間を与えてくれた人も、きっとそんな思いで、「喋ってみたら」と勧めてくれたのだと今も理解している。

 ただ、この十五秒、実際に話してみると実に難しい。風が強かっただの、雨が降りましたでは「フン、それがどうした」になってしまうし、だからと言って表現に凝ると、やけにキザで親しみ易さという点からは、かえって逆効果になりかねない。回を重ねるうち、結局自分の体験や感想に基づいて吐露された言葉以外、浮いてしまって使えないことがわかってくる。

 例えば、ある日のコメントはこんな中から生まれてきた。

 九月初めの日曜日、私はモスグリーンのスーツで、正午過ぎに行われる19°ニュースの打ち合わせに出席した。女性キャスターのほとんどは本番前に用意された衣装に着替えるが私はどうも普段の自分でなくなってしまいそうで、これを潔しとできない。スタッフの人達もそのことはよく承知しているはずなのだがその上で、一人のディレクター氏がこう声をかけた。

「今夜、それで(画面に)出るの?」

 私、ちょっと困惑しながら、

「そ、そうですけど……何か、いけませんか?」

 この答えにすかさず、

「いや、今日は、やけに地味だと思って。まっ、年増の魅力ね」

 これには一同大笑い。(中には笑っていいものかとまどっている人もいて、この思いやりが、二十五歳も過ぎたわが胸には却って突き刺さったのだが)、ともかく、その場では平静を装う以外ない。

「まぁ、本当に年増の女性に面と向かって年増とは言いませんものね、ハッハッ」

 と笑い飛ばしたものの、こめかみは十分にひきつっていた。

 この昼下りの貴重な経験、活かさないという手はない。そこで、その日の午後七時前、各地の気温が軒並大幅に下がったという気象庁の方の話を受けてのコメントは、こうなった。

「今のお話の通り急に秋めいて、街ゆく女性の服装もぐっと色味が深まってきました。今日は私も、ちょっと秋を意識してきたつもりだったんですが、周囲からは見事に年増と言われてしまいました。本人はシックと言って欲しかったのですが、いかがでしょうか?」

 まあ他愛もないと言ってしまえば、至極、他愛もないことなのだが、要するにこんな一言を通して、訳知り顔で無感動にニュース原稿を読んでると思われがちな私だって、血も涙も流すフツーの二十六歳であることを伝えたかったのだ。そして同時に、そんなアナウンサーに19°ニュースを担当させるくらい、NHKは開かれた懐の深いテレビ局であることを視聴者に印象づけたかった。

 果たして、お茶の間からの反響は期待どおり、もしくは期待以上だった。激励の便りが数多く寄せられ、しかもその大半は私個人ではなく、この企画を勧めたNHK自体を評価するものだった。新聞の投書欄にも、好評の声が届いた。

 が、結局、このコメントは十二月十一日をもって全面禁止となる。

“なぜ、いけないのか?”局側は、私が納得できるだけの説明を与えてくれなかった。

 同時に、“なぜ、私が、こうまでこのコメントにこだわったのか?”その真意すら、語らせてくれなかった。

 時代の流れにさした棹が、ポキンと折れて流されてゆく様を、私はただ見送るしか術がなかった。

 翌年、春。『19°ニュース』を卒業し、さて、どこで仕事をさせてもらえるやらと思っていた私を、『おはようジャーナル』のスタッフは変わらぬ温かさで迎えてくれた。有難かった。

 この番組とのつきあいは、ニュース担当と同時に始まった。五年と四カ月という全在職期間の内の三年間をともにさせてもらった。戦争体験を子供達に伝える、シリーズ『戦争を知っていますか』など、数々の勇気ある良質の番組を送り続け、たとえ何かしら圧力がかけられようとも「正しいことは、正しい」と貫き通してきたその番組姿勢に内側から接しられたことは、私の短いNHK人生の中で最大の財産であり、誇りだった。

 だが、この『おはよう……』も含め、いくつかの地味ながら優良な番組に打ち切りの声がささやかれ、実際に幕を閉じていく。NHKの一視聴者としても、この春はなんとも憂鬱な春だった。

 変化は世の常、全世界へネットワーキングした、ダイナミックで颯爽とした番組が、次々と登場しているじゃあないかと言われれば確かにその通り。だが、私はどうやら本質的に、古い型の人間のようだ。今のNHKとは二十一世紀に向け、歩く方向が少々違っていた。

 かと言って、べったり寄り添わず、少し距離を置いて歩調をあわせてゆけるほど、私はNHKに対してクールになれそうもない。

 結果、こうなった。

 勝手に騒いで、勝手に辞めていくというこんな自分の為に、NHK内外の知人が方々で、送別・激励の宴を催してくれた。直接お話を交わしたこともない大ディレクターや大記者の先輩から、長時間にわたるお見舞い電話や、ご自身の体験と重ねあわせて綿々とつづられた激励文なども頂戴した。

 わが慕しのNHK!―今回の経緯を文章に留めておこうと心に決めた時、瞬間ひらめいた言葉がこれだった。この気持ちをぶつけて採用となり、この気持ちのまま走り、この気持ちのゆえNHKを去ることとなった。

 お世話になった方々は数知れないが、とりあえずこの紙面をお借りして申し上げたい。

“本当に、ありがとうございました。そして、さようなら”と。

誰のための報道か

 アムステルダム発―東京行。機内で新聞を広げると涙がグーッとこみ上げ、ポトポトとインクの文字を湿らせていった。本島長崎市長が、テロリストに狙撃されてから一週間。その病床からのメッセージが掲載されている。

 そう言えば、この事件の第一報を知ったのがアムステルダムに向かう際の機内だった。あの時も涙が溢れた。暴力で言論を圧殺しようとするその卑劣極まりない試みに、ただただ悔し涙が止まらなかった。だが今回の涙は、前回とはちょっと違う。もっと穏やかで、むしろ感動的でさえあった。

 口から血が溢れ出し、薄れてゆく意識の中、自分はもうこれで死ぬんだなあと覚悟しながら本島市長は何を思ったか。弱き者、貧しき人々の為に、自分は果たして力を尽し得たか、それを自らに問うたと言う。以前からクリスチャンとは聞かされてはいたが、あぁ氏はこうした思いを全うする為、脅迫に屈することなく今回の凶弾に倒れたのだと改めて知らされた。

 誰の為に、それを行うのか。このことは、人間が行動していく上での最終的な指針なのではないかと、私は報道という仕事に携わるようになってしばしば思う。というのもこの業を曲がりなりにも続けていると、なぜこの事実を世に知らしめなければいけないのか?なぜこの人にマイクを向けなければいけないのか? と考えてしまう場面が余りにも多くて、しまいには自分達マスコミの存在理由そのものが「?」となってしまうことが、ままあるからだ。

 例えば、先日、私が担当している報道番組の中でも是か非かを巡って論じられた実名報道。事実をリアリティをもって人々に伝えてゆく為に実名であることは不一可欠、マスコミは警察の動きをチェックする役目を担っている以上匿名報道はかえって危険と、いくらその必要性を説かれても、やはり今一つ「?」は拭い切れない。真実をどこまでも追求し、明らかにしてゆくことは、報道の何よりの使命だと思うし醍醐味だとも思うが、その結果その報道内容が何人かを精神的・肉体的に苦しめ、しかもそれを補って余りある意義を社会的影響という点から顧みて見出せなかった時、私達はその過ちをどうやって償えばいいのだろう。

 番組の中では、えん罪で逮捕され家族も財産も失うこととなった男性がたとえ無実が明らかとなった今でも、一度実名写真入りで大々的に報道されてしまった以上、も道う一つまともに顔を上げて歩けないと訴えていた。ここまで悲惨な例はたとえ稀だとしても、大なり小なり報道被害を受けた人は数え切れない。そして何より恐しいことは、私達マスコミは自分達が傷つけてしまった人々の怨嗟の声を耳にする機会も滅多になければ、しかもそのことで裁かれることもまずないという事実である。もしそうしたことがあり得たならば、私達は自分達のもつ社会的影響力の大きさを功罪とともにもっと明確に自覚できるだろうし、少なくとも、売らんかなで人権は二の次三の次といった一部の報道体制への強力な抑止力とはなるだろう。

 誰の為に報道するか。去年、サンフランシスコ大地震を取材した際も、あちらのアナウンサーに、「私は、死者の数や震度などといったことより、今生きている人に一番役立つことをまず最初に伝えたいと思って放送した」と語られた時、木槌でガーンと頭を殴られたようなショックを受けた。が、その後一つ一つのニュースを伝える時、自分の意識がどれほど改まったかと自問すると、恥かしさに顔が熱くなる。ただしかし、今回のように言論の自由そのものが危機にさらされた時こそ、自らの姿勢を厳しく問い直すべき良い機会ではないか。私の留守中、わが家にもこれまでにない不穏な電話がかかったようだ。だが、誰の為にということを考えたら、今毅然とした態度を取らなくてどうすると、寒風の中タラップを降りながら、思いを新たにした次第である。