夢見るリアリスト

第5章
すべての国が私の恩師
―自分が見える、日本が見える―

中国―天の半分を女が支える国

“厲害”と書いて、リーハイと読む。

 中国語で、強い女性、男を尻にしく女といった意味で使われる。

 一九八八年の七月半ば、NHK『モーニング・ワイド』の取材で二十日ほど、中国の旧満州地区、大連と瀋陽に滞在する機会に恵まれた。そして、この期間中、最も頻繁に用いられスタッフの脳裏にしっかりと焼きついた中国語が、冒頭の“厲害”だった。私の気の強さに辟易とした上海の石川特派員(当時)が口に出したのを契機に、日本人スタッフの間に一気に広まった。

 ただ、私もさることながら、中国の女性は、おしなべて厲害だ。社会主義体制となって以来、徹底した男女平等が進められているこの国では、成人女性のほとんどが職業を持ち要職についている人も少なくない。例えば私達の滞在のコーディネートを一括して引き受けてくれた、いわば中国のNHK、『広播電影電視部』。ここの外部局局長は周さんという女性で、日本の島(当時・NHK理事)か、中国の周かと並び称されるほどの実力者だ。 自分の意見を主張しないと仕事にならないところにもってきて、元来、論理的で主体性のある国民性が駄目押しとなっているのだろうか。もし男性が一言、軽口のジャブを彼女達にしかけようものなら、すぐさまカウンターパンチ級のお返しが二、三発かえってくることは、覚悟しておいた方がいい。

 だが、この厲害という言葉、必ずしも悪い意味ばかりで使われるとは限らない。わずか二文字のその中に、知的で、自立した、誇り高い女性といったニュアンスも含んでいる。

 そういう意味から、大連・瀋陽二つの街で私の通訳兼コーディネーターを務めてくれた二人の女性は、どちらも実に素敵な厲害だった。

 大連の陶俊葆さんは、大学の講師。大連外国語学院で、日本語を教えている。飛級で十六歳にして大学生になったという才媛だが、おまけにとびっきりの美人。三十四歳で小学校一年生のお嬢さんがいるというのに、化粧っ気のまったくないその顔は、ツルツル、ツヤツヤで、どう見ても女子大生にしか見えない。

 いたずら好きで、始終冗談を言っては周囲を和やかな笑いの渦に巻き込み、また子供のように実に好奇心旺盛。

 ホテルの部屋で私が化粧をしていると、まるで少女が母親の変身してゆく姿に胸ときめかすように、うっとりと見つめて、しきりに「キレイね、キレイね」と目を丸くしてつぶやいてくれるので、こっちはすっかり赤面してしまう。

 そのくせ自分は口紅すらひかず、テレビに出る時だけでもせめて軽いお化粧をと頼みこんだのだが、結局「私は教師だから」と丁重に辞退されてしまった。根っから、学究肌の人なのである。とにかく、中国の政治・経済・歴史・文化、いかなるジャンルの質問をしても即座に答えが返ってきて、まさしく生き字引とは彼女のこと。よしんば統計的な数字でわからないことがあっても、すぐさま外事弁公室(日本でいう外務省)に問い合わせ、必ずや次の日までには調べておいてくれる。

 大連での放送は、彼女の協力なしにはとても考えられなかった。

 というのも、彼女に要求されるのは単なる高度な通訳能力だけではないのだ。日本側のスタッフが、今、何を、何故取材したがっているかをいち早く察知し、中国側に交渉し、必要と思われる資料を集め、私が誤まった事実を伝えないようコメントまでチェックする。無論、画面にも早朝から一緒に登場してもらう。

 朝、三時に起きてもらうこともあれば、夜十二時を過ぎても、私のコメント作りにつきってもらうこともあった。

 家では、家族が彼女の帰りを待ち侘びているし、大学には、夏休み直前で学生の面接試がまだ残っているという。もし私が彼女だったら、「いい加減にして!」と叫び出すよ

状うな状況が、いく度となくあった。

 が、夜ふけても、仕事が遅々として進まぬ私を彼女はせかすどころか、「心配しないで、(私にとっても)とても勉強になることだから」と肩までもんでくれる。毎朝四時過ぎには起き出して、本を読み始めるという陶さんからは遂に一度も先に帰りたいという言葉を聞かなかった。

 中国では、裏表のない、潔白な人を蓮の花にたとえるらしいが(実はこれも彼女におそわったのだが、)この陶さんこそ、まさに蓮の花のように高貴で清廉な佳人であった。

 一方、瀋陽の張淑萍さんは、花にたとえたら、厳寒、烈風に耐え、やがて氷を砕いて咲く雪割草、シベリヤに近い黒龍江省の出身ということで、さすが北国の人、実に我慢強い。しかも、三十一歳の若さで、旅行社の課長職を務めるくらいの辣腕キャリア・ウーマンだから、その取材交渉能力は天下一品。

 ある時、私達の取材意図と、中国側のセッティングしてくれた取材対象が、かみあわないことがあった。

 朝の市場らの現場リポート。経済開放が急速に進み、個人経営が認められ、万元戸と呼ばれる金持ちが続出している中国の経済実態を私達はその市場から伝えたい。そしうた万元戸は、農家へ直接自分のトラックやリヤカーで出向き、買付けをし、市場へ運んできた人達、特に、卵や肉は利幅が大きい。それなのに中国側が用意してくれた人達は、政府経営の卸売から品物を買って小売している人達ばかり。こちらは元手がかからぬ分、利益は申し訳程度で、停年退職者や学生が片手間でやっている場合が多い。

 これでは話にならないからと、急遽取材予定地ではない隣の市場に走り、個人経営で、普通のサラリーマンの一カ月分を一目で稼ぐという卵売りのおじさんを張さんとともに見つけ出す。これが衛星中継の本番、一時間前。

 市場には、午前六時をまわって、ドッと買物客がくり出してきた。混雑のピークも近い。卵売りのおじさんには一刻も早くリヤカーを引いて、カメラとマイクケーブルの届く範囲まで移動してもらわなければならないのだが、ここで巡回の警吏から“待った”がかかった。取材許可のおりてない人を勝手に出演させてもらっては困るというのだ。それは、至極ごもっともなクレームなのだが、何しろ本番まであと数十分。しかも、彼がいないとリポートが成立しないのだ。

 ここで日頃は柔和な張さん、彼女の体重の二倍はあろうかという巨漢のお役人の前にスックと立ちはだかり滔々とまくしたて始めた。勿論、中国語だから細かいことは(いや、大ざっぱなところも)定かでないのだが、とにかく何故、用意された業者だけでは事足りず、卵売りが必要かという理由を彼女自身が良く理解してくれていたので、まるでわが事のような迫力で猛然と相手を説得してくれた。そんな、有無を言わせぬ彼女の気迫にすっかり圧倒されてか、あちらもほどなくして、わかったという表情で警棒を左右に振り、おじさんに移動を促してくれた。まさに厲害の面目躍如ここにあり、の一コマだった。

 彼女と会って厲害に加え、“母は強し”ということも実感した。張さんも、陶さんと同じ、一児の母。三十一歳で、五歳の息子さんがいる。

 旅行社勤めの為長期出張あり、夜勤・早出ありの不規則な勤務。よく子育てと両立しますねと感心すると、

「夫が協力してくれるから」

 と、サラッと答えられてしまう。張さんのお宅では、お子さんの保育所への送り迎えと、掃除が旦那様の分担、あと料理や洗濯などの家事一切は、彼女が引き受ける。

「畑さんは仕事を、ずーっと続けるんでしょ?」

 と言う張さんの質問に、

「ええ、でも子供ができたら、未来の夫はあてにできないし、難しいかも……」

と視線を落とすと、彼女これまた自分のことのように声を張り上げて、

「勿体なーい。せっかく、アナウンサーなんて立派な仕事についたのに、絶対続けるべきよ!」

 と真剣に私の目を見つめて、説得してくれる。

「中国で、もし自分の奥さんが働いてなかったら、その旦那さん、『あなたの奥さん病気ですか?』って聞かれます。お願い、仕事続けて下さい」

 結局、張さん、私が首を大きく縦に振るまで、その場から放してくれなかった。

 そんな頑張り屋の張さんが、一度だけ、用事がないようだったら、今日は早目に帰らせて欲しいと、耳打ちしてきたことがあった。熱を出して臥せっていたお子さんが、遂に入院してしまったというのだ。それまで子供が病気だなんて、おくびにも出さず、毎晩遅くまでつきあってくれていただけに、こちらも驚いて、

「今日だけなんて水臭いこと言わずに、明日も一日、付き添ってあげて下さい」

 と勧めると、彼女はこれを頑として受けつけない。それどころか、

「子供が病気のこと、どうか他の人には言わないで下さい。心配させてしまいますから」

 と手を合わせて嘆願されてしまった。

中国と日本。仕事に、プライベートを持ちこまない、その大原則も同じなら、母親の帰りが遅ければ熱を出す、ナイーブな子供心も同じ。ただ、それでもなおかつ、人間であるなら女性も仕事を持つべきで、その為には、男性も国家も協力を惜しまない、それが当然とされているところが日本とは大きく異なっていた。

「絶対、来年も来ますから!」と約束して彼女達と別れた私だったが、この翌年の六月に、あの血の天安門事件が発生。未だに音信不通の彼女達と、再び抱きあえる日はいつのことだろう。