夢見るリアリスト

第2章
キャスター、その不可思議魅力
―虚構と現実に引き裂かれながら―

借り物の服は着られない

 スタイリストさんが選んできた服をサッと身に纏いスタジオに入る。そんなことができたらどんなに楽だろうと、私も思う。

 ところが、これができない。借り物の服を着ていると、話す言葉から人格まで全てがウソッぽくなってしまうようでどうにも居心地が悪い。他人が見立てたものも同様。いくら酒落た服でも自分が納得が行かないまま着たら最後、金縛りにあったように身動きとれなくなってしまう。

 とは言え、大概キャスターと名のつく人達は、各スタイリストさんが持ってきた服を造作もなく着こなした上に、私の何倍も円滑に番組を進行しているのだから、要するに私は単に不器用なだけなのかもしれない。

 とまあ、少々自己嫌悪に陥っていたところ、「やはり人間、気に入った服を着てる時って自分に自信が沸いてくるものだし、話す言葉にも説得力が出てくるんですよね」と嬉しい一言で励まして下さる方にお会いした。

 誰あろううあの大島渚監督である。某熟年向け雑誌も、その創刊号に監督の衣装哲学を特集するなどベストドレッサーぶりはつとに名高いが、その監督が、先述のような私の嘆きを聞いて、「その妥協のなさ、素晴らしいじゃありませんか」と拍手を送って下さったのだ。まあそれはともかく、雑誌の対談でご一緒したこの日の監督のコーディネートも実にお見事。思わず息を呑むほどだった。

 まず、見るからに仕立ての良いテーラーモードのスーツは、晩秋を思わせる深いグリーン。上品な発色が生地の質の良さを感じさせる。これに合わせたYシャツが、なんと白地に紺のストライプ。

 太からず細からず、紺・白のバランスが絶妙。更に朝方まで決まらなかったというネクタイは、スーツより一段濃い目のグリーン地に赤や青など様々な色が微妙に混じりあって、はしゃぎ過ぎない遊び心を感じさせる。さて、眼鏡はと言えば金縁の丸メガネ。ただし、縁の右端に大きめのラインストーンが一粒輝いている。ブラウン管で日頃拝見している印象からすれば、今日は比較的オーソドックスにキメてらっしゃるのかなあと感じて、この装いである。

 それにしても、洗練されたダンディズムに加えて、監督の着こなしにはなにか匂い立つような華やかさがある。所謂シックな装いとは一線を画しているのだ。 一般に、男性が社会に対して自らをデキる男としてアピールしたい場合、その服装は自ずと一歩引いた、早い話世間の慣習や規範という粋からはみ出さないあぶな気ないものとなる。その際最も制約を受けるのが色彩。従って、ドブネズミファッションは、体制順応への何よりの踏絵となる。が、監督は、それに真っ向から反旗を翻してらっしゃるのだ。基本的にはその季節に咲く花の色を選んで、梅桃のピンクから向日葵の黄色に至るまでありとあらゆる色を着こなされるそうだが、これを日本の男性が、しかも監督ほどの年齢で実行するとなれば、似合う似合わぬ以前に、社会的な風当たりがかなり強いに違いない。

 私は、服というのは自分を客体として、つまり見られる存在として大衆の前に投げ出す為のジャンピングボードだと思っている。自己を客体化することで得られる恍惚感。それは長いこと男性にはご法度だったというのに、大島監督は苦もなくその垣根を飛び越え、喜びを享受してきた。その着こなしの底流を流れる、静かな反骨精神。

 別れ際、片手にされたバッグがまた振るっていた。白黒のハリウッド映画のスクリーンで、エンスト寸前のオープンカーに無造作に積まれていそうなかなり年季の入った中型ボストン。「男の権威づけみたいになるといやらしいから、カバン選びは難しい」という監督の言葉が一瞬頭をよぎる。きっとあの大きなカバンには青春という夢がパンパンに詰まっているに違いない。