利根川進教授ロングインタビュー(平成12年9月13日)

MIT脳科学センターにて


本日はお忙しい中を、お時間を作ってくださいまして本当にありがとうございます。

利根川進 教授

いえ、ぼくで役に立つことがあるかどうか。お役に立つことができるかどうかわ
からないですけど、バイオインフォマティクスに大変ご興味がおありだと・・。


ずっとIT関係の関連の問題を主にしてきたんですが、日本もITに続いてライフサイエンスだと。やはりこのところはバイオインフォマティクスということで、大きく、いずれにしてもバイオインフォマティクスだけではなく、それを生み出すメカニズムとか、システムですよね。そういうことを学ぶという・・。

利根川進 教授

とにかくぼくに言えることは何でも言いますけど、特にそっちのほう、うちの研究室で主体にしてはやってないので、今日、ゲノムセンターへ行かれました?


はい。

利根川進 教授

あそこで会われましたよね。


はい。

利根川進 教授

例えば彼らなんかのほうがメインにやってるわけですね。


ですから、別に利根川先生には表敬訪問を兼ねて、こういうゲノム関係とかゲムノ解析などが進んでいきますと、蛋白質の構造とか機能とかが解析されればそれの集合体であることというのがわかってくると素人なりに思うので、どういう将来性があるのか、こういうところへ来たら日本はどうしたらいいか。逆にここはやめたほうがいいのか、ということを・・。

利根川進 教授

ぼくは科学技術庁の、その下の組織だと思いますが、その委員会に一応入ってて、一回出ましたけど、あれですよね、日本はなかなかこういう方面はアメリカの後れをとったんではないかとえらいみんな心配しているんだと思います。政治家の方も、それから官庁も、心配しているようですね。確かにアメリカは先を行ってることは間違いないけれど
も、ぼくの全体的な見方は、まだまだ先があって、まだまだ何回もステップがあって、徹底的にこれでもうわかるんじゃないかという状態とはぜんぜん無関係だから。やっと日本で、ゲノムの進歩、だいたいこれをどういうふうに利用するかという。だからファンクショナル・ゲノム、プロテオミックスという蛋白質の、遺伝子の産物である蛋白質のほうの
解析にDNAのシークエンスを役立てて、いずれは病気の診断とか、新しい薬の開発に使われるようになると思いますけど、まだまだそのためには難しいとこがあって、2~3年で片がついちゃうというような感じでは全然ないとは思います。


その中で例えば、全体の資金そのものが、絶対的に不十分である上に・・。

利根川進 教授

それはどこの話ですか。


畑もちろん日本の話でして。省庁の縦割の問題がありましたり、非常にばらまき的に資金が使われてしまっていて、本来なら今こそ「選択と集中」をしなければいけない時期なのに、日本にはどうもそうしにくいカルチャーがあるし、おまけにそれぞれのプロジェクトのプロポーザルを評価するシステムが非常に脆弱だと思うんです。

利根川進 教授

だからね、これはね、最近あなたのような政治家たちも気がついてきてるけども、特にバイオ・インフォマティクスとかIT(インフォメーション・テクノロジー)、大学の改革というようなことがだいぶいろいろなとこに行き渡ってきたので、皆さんがそういう事を言っておられるが、ぼくらから見ると、もう10年も15年も前からこういう問題はずっとあって、いろんなとこで言うけども、非常にマイノリティー、なにしろ政治家の票にならないね。


今もそう言ってらっしゃる・・。

利根川進 教授

今でもならない。だからよっぽど肝の座った政治家じゃないと、こういうことを真面目に考えたり言ったりなかなかしなかったんです。最近はいろんな人が関与しておられますけどね。だから、ぼくから見ると、みんなテクノロジーに関連して言ってるけども、もっと幅広い根が深い問題で、それこそ今、日本も時どきやってるけど、子供の教育の仕方から、大学の研究の制度、資金の分配のされ方ね、今言われたように、そっちのほうに全部根深いものがあって、その一つの表れとしてこの分野の研究においても、あるいは解釈においても、やっぱり日本は後れをとっているということだと思う。だから、必ずしもバイオ・インフォマティクスに限って後れてるわけではなくて、全体的に後れている。基礎研究に・・。結局、バイオ・インフォマティクって、DNAのシークエンスとかそれをどういうふうに利用するかというと、もともとは非常に基礎的な研究から始まっているわけ。最初から何か応用に使おうと思って始めたわけじゃない。人間の遺伝子を全部解明しましょうというのは、必ずしも最初から・・。確かにすぐこれは、何かの応用に役立つなということは気がつくけども、特別に、スペシティフィックにこういうことに利用しようなんていうアイディアが既にあってこういうことを始めたのではなくて、非常に基礎的な研究をしていて初めてDNAのシークエンスを決めるというテクノロジーが開発されて、その結果、そういうアイディアが出てきた。実は、この歴史をあまり細かいことを言っても興味がおありでないかもしれないけど、ぼくが若いころに研究をやってたソーク研究所というサンディエゴにある研究所。そこでぼくは10年以上前ですね。いわゆるポスト・プロフェル、PhD、大学を卒業して、とにかく3~4年研究した。そのころはがんウイルスの研究をやっていたわけです。がんウイルスの分子生物学。そのときのぼくの先生が、イタリア系のアメリカ人の分子生物学者で、レナト・ダルベッコという先生で、今はもう90歳近いと思います。彼がこれは言い出したことなんです、ゲノムのシークエンスをやろうというのは。ヒューマン・ゲノムね。彼はちっちゃいレターという、「サイエンス」という、ここにもあるけど、我々に非常に評判の高い専門誌がある。専門誌だけども、同時にこの「サイエンス」というのは半分、新聞みたいなところもあって、いわゆる「サイエンス」の世界におけるゴシップみたいなものもいっぱい最初に出てくるんです。そこに読む人からのレターのセクションというのがある。投書みたいなの。そこにちゃんと記録が残っているんです。いちばん最初にダルベッコ先生がそういうことをやると面白いぞと。
1970年代だと思いますけどね。そこから始まってきているわけ。彼は別にそんな応用のことを考えたんではなくて、人間の遺伝子はどういうものがあるか全部解読していけば、生物学がすごい発展するとそういうふうに思って、そこから来ているわけ。
 だから、言いたいことは、もちろん目の前にある問題に対処していくことは重要だ。だから、一生懸命みんなが大変だと思っていろいろ考えて、どうやって、少しでもアメリカに追いつくか、あるいはアメリカではやらないようにユニークな研究をやろうとするのはぼくは賛成です。もちろんやらなきゃいけない。だけど、いつもこういうふうに対症療法ではものが解決しない。もっと20年ぐらいの、ワン世代ぐらいの先のことを考えて、日本は先のことを考えるべきで、これから日本は科学技術をどういうふうに位置付けて、日本の将来、そのためにはどこから気をつけなきゃならないかということまで考えて対処しなかったら、ぼくはいつもこういうそれぞれの位置において問題は起こると思います。問題というか、日本は大変だという状態になると思います。
 これはなにも生物系に関連したことだけじゃなくて、いろんな分野において言える。そのためには最近、江崎玲於奈ってぼくはよく知ってるけれども、彼が会長になって教育の審議会みたいなのをやってますね。最近、中間報告が出るのかな、出たのかな。とにかく、あんなところにいいことは書いてありますよ。書いてあるけど、ほんとにやるかどうかがいつも問題で、よっぽど腰を据えてかかって、リーダーシップのある政治家が入ってこないと変わらないですよ、なかなか。ぼくがいちばん身近なのは大学なんです、やっぱり、大学で研究してるから。
 今度、実は蓮實重彦という東大の総長、彼は文化系なんだけど、やっぱり非常に危機感を持って、日本の大学制度ということを考えてます。全然知らなかったんだけど、今年の初めに、彼が1ダースぐらいの東大のスター・プロフェッサーを連れてMITへ来て、プロパガンダをやってたの。その一つのきっかけは、これはそんなに重要視する必要はないんだけど、アメリカのある社会科学系の教授が、世界の大学のランク付けというのをやった。そのときに、日本の東大が51位ぐらいだった。そのやり方というのは異議は大いにあるけど、別にそんなに信用する必要はないんだけど、でも、やっぱりこれはショッキングなことだ、東大の総長や東大の先生にとってはね。
 そういうこともあって、彼は、なかなかあの人はこういう普通の学者とは違って、マスコミにも関係しているし、象牙の塔にこもってたってダメだっていうんで、彼のアイディアで催しをやった。ぼくは非常によかったと思う。ぼくはこっちの半分世話役みたいなことをやりましたけど、その結果彼と知り合いになって、話を聞いてみるとなかなか立派な人だということがぼくにわかって、今度から文部省のあれで総長に外部からのアドバイザーを付けるのかな、そういう制度ができたんです。彼はなってくれって言ったから、ぼくはOK、なんていうことはできないけど、東大の悪口を言ってもいいのならやってもいいってやることにして、今度、11月、12月、日本へ行って、東大に行って何回か講演したり、ディスカッションしたり、それからアドバイザーの会議にも出て、何を言うかわからないけど、これから考えますけど、話はするつもりだ。それで、それをやらなくても、彼もいろんなとこへ書いてます。
 例えば「文藝春秋」でも、彼がインタビューされて、書いてたでしょう。あそこに書いたのを読むと、非常にまともなことが書いてある。東大総長でもあれぐらいのことをパブリックに言えるかと思うぐらい、かなり思い切ったことが書いてあります。残念なことに、彼が考えてるような方針が、本当に実行されるかどうかという問題がある。そこがなかなかされない。
 日本の大学は教授会の自治というのがある。教授がものすごい力を持っている。教授がすべて裁量。大学全体のね。それで、投票で重要なことを決めていく。アメリカの大学みたいにトップ・ダウン・システムになってないわけね。アメリカの大学は、MITでもそうだけど、結局、総長がオールマイティーなんです。その総長をだれが決めるか。これは教授会が投票するわけではない。これはコーポレーションという20人ぐらいの最高の決議機関があるわけ。そこに出てくる人は、半分以上は、例えばIBMの会長とか、ゼネラル・エレクトリックの社長とか、そういうビジネスマンとか裁判官とか、学者も入っているが、外部の人がいっぱい入っているわけです。彼らが結局、次の総長を決める。それはアドバイスはありますよ。だけど、ある人をこいつを総長にすると決めるわけね。それでその総長のどういうビジョンを持っているかで大学はずいぶん変わり得るわけ。総長が二番目の、プロボストとMITではいうのだが、それを自分でピックアップするのね。自分で決めてくるわけ。こいつをおれの部下にする。今度はそのプロボストが各学部の、日本で言うと学部長、アメリカではディーンという、スクールの。スクール・オブ・サイエンス、スクール・オブ・エンジニア、スクール・オブ・マネジメント、幾つか七つぐらいあるかな。そこのヘッドをプロボストが自分でピックアップして、教授の意見は聞く。別に我々は投票する権利も何もない。そういう非常にトップ・ダウンでできているわけです。
そうすることによって、能力のあるビジョンのある人を選べば、それに基づいてこういう企画が上に上がっていく。学校と違うところでそれをやる。大きく意見が違えば、ちょっと毛色の違った大学ができてくる。それは伝統というのがあるから、そんなむちゃくちゃに、一人の総長でがらっと変えることはできないけど、例えばある部門を廃止しちゃうなんていうこともできるわけです。そういうことは実際起こっています。時代にそぐわない学部の下、日本で言うと学科に対応するのかな。それで、教授が10人か20人いるようなグループがあるでしょ。これは時代にそぐわない、この分野のことはやってもあまりしょうがないということになると、全部トップ・ダウンで廃止できる。それで、教授たちはどうなるかというと、アメリカの教授は永久職と永久職でないのがあって、テニュアというのがある。テニュアの教授はたしかに大学に残れる。でも、どこかへ配置換えされる。会社と同じです。クビにはしないけど配置換え。その代わりテニュアを持ってない教授は職もなし。どこかへ行かなくてはならない。それは非常にトップ・ダウンでできてる。だからそういうふうに特色が出せるわけ。お互いにコンピートするのね。プロ野球の球団の運営と非常に似てると思います。いい教授には2倍ぐらい・・そんなに、プロ野球みたいに50倍ぐらい給料に差があるというふうにはできないけど、同じ歳で2倍になるというのはしょっちゅうあることで、それだけじゃなくて、研究費への配慮とか、実験なんかぼくらがやることは、場所がないとできないから、どのぐらいの場所を与えるかなんていうのも、総長がそんな細かいことまでは決めてないけど、要するに上からくるんだ、トップ・ダウン。
 残念ながら日本の大学は、大学間のハイアラーキーは非常にきついわけです。東大がトップだけどね。その次、京大、それから阪大、東北大なんかがこうあってね。文部省から年間行く経費だけど、東大か阪大ではやっぱり違うんです。講座当たりの額そのものが違う。昔からそうなってる。そういうハイアラーキーはあるんだけど、それは別に個人の研究者の、教授の能力に応じてやっているわけじゃなくて、東大というブランド対してハイアラーキーで差をつけてる。だから、東大に素晴らしい有能な教授ばかりいればそれでもうまくいくけども、必ずしもそうじゃない。やっぱりものすごく無駄が起こる。それから、どんなにいい研究をやっても、それは今言ったような文部省から行くカネの配分には十分に反映されない。もちろん個人の研究費もありますよ。日本は科研費というのがあってね。


その配分方法に、非常に問題が多いんですが。

利根川進 教授

そうなんですよ。だから、アメリカの我々の生物、広い意味の生物学ね。基礎医学から何かみんな入っている。アメリカにはナショナル・インスティテュート・オブ・ヘルス(NIH)という。


今回の米国視察の初日に伺いました。

利根川進 教授

大きいのがあるでしょう。あそこは自分のところにもすごいキャンパス持って、人を集めて研究やってるけど、グラントを外へ出すわけ。そのグラントの出し方が、やっぱりエバリュエーションの仕方とか出し方がそうとう違う。科研費のよくなったといっても、日本のカネの配分の仕方はちょっと問い詰めると、次の段階にいくと、いや、そこまではやってませんと、やっぱり言わざるを得ない状態なんです。あそこはスタディー・セクションという研究者のエバリュエーションのグループ、班をたくさんつくるわけです。
どんな班が・・20人か25人ぐらいでやってる。しかもそこには28~29歳の、新参のプロフェッサーも入っていれば、60歳の引退間際の先生も入っている。女性も入ってる男性も入っている。それからカリフォルニアも入ってるし、ミッドウェストも入ってるし、テキサスも入ってるし、イーストコーストも入ってる。それをなるべくバランスをとって人を集めて、それでグループをつくっていった。どうやったらえこひいきを排除できるかということに心血を注いで、そういうグループをつくってきた。しかも、例えばぼくのグラントが評価されるとするでしょう。それからぼくのデパートメントにいる、ほかの教授がたまたまたその班に入ったとしますね。ぼくのやつをディスカスするときは、その教授は部屋を出なきゃ投票できない。そういうふうに、どんな評価の仕方でも、完全に客観的な評価なんていうものはないじゃない。全く、客観的な評価なんていうものができるわけないんで、いかにしてなるべくそういうえこひいきを個人的な感情を排除するかということで、何層にも手段を工夫してやっているわけ。
それでも問題ある。だから、それでも問題あるから、アメリカでは最近は二重の制度にしているわけね。例えばNIHは税金だからそうはいかない。それでもNIHでも「メリット」という制度がある。何年間も非常にいい成績を挙げてきた人には、5年じゃなくて10年間グラントあげましょうとかね。評価をいちばん下の班のレベルでやらずに、もう一つ上の、数の少ない、より経験を積んだ研究者たちだけで決めちゃう、そういう意味で非常に、実績があればより通りやすい。そういうメリット・アウォードというのと組み合わせているの。
 一方では、それだけではダメなだと。メリット・アウォードだけではどうしても実績のある人だけにいっちゃう。そうすると実績はまだないけど、これから実績を出す人にも行くようにしないといけない。両方組み合わせると。そういういろんな努力をしているわけです。
 日本はよくなってきて、全体の雰囲気が少しずつよくなってきたんだけど、やっぱり評
価がアメリカみたいにシビアじゃない。


どうして米国のような「評価」体制ができないのか、なんとか日本にも同じくらいのレベルの評価システムを作りたいと、日々永田町で奮闘はしているんですが。

利根川進 教授

それは、日本の社会の価値観を反映してるんです。ぼくに言わせれば。


そうなるとタマゴが先かニワトリが先かといった議論になってしまいますが・・。

利根川進 教授

いやいや、だってこんなカネをどうやって配るかなんていうのは、社会で行われてる出来事のほんの一部にすぎないので、日本というのはいわゆる、簡単に言うと村社会で、そこには村の偉い人がいて、ハイアラーキーというのはたぶんすぐできるんですよ。
日本のグループというのは。その代わり封建時代と同じですよ。大名が、おまえらに食えるようにしてやる。その代わりこっちの言うことを聞けと。やっぱりその制度をものすごく引きずっているわけです。そういう意味では、こんなとこまで言っちゃうと実もフタもなくなっちゃうけど、ほんとの市民社会になってない、日本の社会は。


そういう意味ではさっき大学のことをおっしゃいましたけど、日本の政府、特に内閣は全く同じです。トップ・ダウンなんて夢のまた夢で・・。

利根川進 教授

どこでもそうなの。ただ、日本でシビアなのは、国際競争をしている企業です。
国際競争をしている企業は、それではやっていけないから、もっとシビア。それでも日本はやっぱり今でも年功序列はあるし、終身雇用は強いし、ソニーなんていうところへ行ったって、30歳のやつに給料をいっぺんに 1.5倍にしたと威張っているけど、それは日本では大したことだと思うけど、こっちでは別によくあることで、ソニーがやっと国際レベルの競争ができる体制になってきたということだと思うんです。だから、それはソニーに限らない。企業は競争してるからそうならざるを得ない。だから、今サイエンスの世界も、ほんとを言うと、サイエンスの世界、大学の世界は、少なくとも理科系は、もちろん競争しているわけですよ。
 ところが、残念なことに日本という国は、結構そこそこやっていける国だ。だから、日本でものすごく有名だけど、アメリカへ来ると全然聞いたこともないという大学の先生とかいっぱいいる。学生はそれをまた誤解してて、そういう先生に書いてもらうと、日本では学部長だからMITに入るのにこれは非常に有効なリコメンデーション・レターだろうと思ってこっちへ送ってくるんだけど、こっちの見た先生はこんなの聞いたこともない。
だから、だいたい効果ない。そういうこと、助手でも助教授でもいいから、こっちの先生がその人の業績をよく知ってて、そのためによく知ってるという先生に書いてもらったほうがはるかに効果がある。やっぱり学生もどっちもどっちなんですよ。要するにそういうシステムの中で育っているから、井の中の蛙で、やっぱり日本の社会というのはこういうタイトルとか外見とか、そういうものが非常にやっぱり強く人々の価値観に影響を与える社会であると。アメリカでもそういうことはあるけども、比較的には実質を見る社会だということが一般的に反映しているんだと思います。
 それから、ご存じのように、日本というのは非常に、いつからそうなっているのか知らないけど、とにかく平和な社会です。安全だしね。最近いろんなことがあるけど、みんな仲良くやっていこうと。富もなるべく分配して、ものすごく金持ちもいないけども、すごいプアーな人間もいないようにやっていこうと。加藤紘一が言ってたけど、ゴルバチョフがアメリカへ来て、アメリカのレポーターと記者会見をやって、社会主義というのは非常にうまくいってるんだと。見ろ、日本をって、こう言うんだって・・。
結構、有名な話なんでしょ。いや全くそのとおりで、日本というのは食えないような人を放っておくわけにいかんという概念が非常に強い。みんなでなるべく仲良くやっていこうという社会でしょ。だから、よく言われることだけども、何をやるかがだいたいわかってるとものすごく効率のいい社会。みんな個を殺してグループの生活をしてできるように協力し合ってやっていく。うちの研究室にいるやつなんか、一緒にやれなんて言ったって絶対やらない。自分はどうなるかという、非常に個人的ですからね。残念ながらこういう最先端の、いわゆる創造的な独創的な研究をやるためには、グループ、頭を三つ寄せたからすごいアイディアが出てくるというわけではない。やっぱりその中の一つの頭からすごいアイディアは出でくる。だから、グループの活動ではどうしても御しきれないものっていうのがあるわけ。そうすると、個人が、そういう能力を持った人が、あるパーセントでその国なり社会にいなかったら、やっぱりその分野は発展しない。日本の今言った、なるべくみんな底を上げていくということを大事にする社会、そこでは非常に変わった能力を持った人というのはなかなか能力を発揮できない。


建前上は日本でも、底上げや平準化を目指すのではなく、個性や能力重視で行こうと、文部省はじめ掛け声は随分と掛けてるんですが、完全な掛け声倒れといいましょうか、実際には競争も多様化も日本の大衆は望んでいないんじゃないかといった気がします。表面的には個性重視・能力主義を標榜している、いわゆる市民派というタイプの人間に限って、実際そうなるとしんどそうだからと、おいしいところだけ要求して、自己責任で処理しなければならないところや、負け組みになるリスクになると、弱者を救済せよとか言って政府にすべて責任を押し付ける。ただ、嘆いていても何も変わらないので、とりあえずマスコミや大衆がやれアカウンタビリティだの透明性だのと、政府や役所を批判をしているこの時期をとらえて、きちんとしたエバリュエーションのシステムを日本社会に構築したいなと。その為にどこから手をつけようかという中で、せっかくバイオやITの視察に米国へ出るのだから、その成果を支えている研究開発予算の配分方法もしっかり勉強して、日本に戻ったら、数は少ないですけど心有る議員たちに呼びかけて、行動に移すつもりでいるんです。

利根川進 教授

ぼくもそう思っているよ(笑)。ぼくは思って、あちこちで言ってるよ。だけど、それが改善になるかどうかなんだよね。で、ぼくはいつも平気で言ってるんだけど、大学の改革でいちばん悪いのは大学の先生なんです。さっき言った教授会というものがあって、マジョリティーは改革されると困るんです。それは1人に1票ずつあげたらそうなっちゃいます。だからぼくは、大学は教授会の力を弱くしないといけない。それで、学長を含めたトップの力を強くしないとダメ。ただし、よく言われることなんだけど、規則なり法律を、あることについて1個だけ変えてもダメなんですよ。そうすると必ずひずみが出てくるから。10個か20個、いっぺんに変えないとダメなんです。そうしないと、よく1ヵ所だけ変えて、ほらおまえ、うまくいかないじゃないか、ダメじゃないか、おまえの言うのは間違ってるんじゃないかと言うんだけど、これは全体を見てないからそうなんです。
 例えば、卑近な例が、日本は講座制度というのがあるんです。教授がいて、助教授がいて、助手がいてってね。そうすると、すごいハイアラーキーになってる。ここがアメリカの大学とものすごく違うところなんです。MITでは30歳ぐらいでアシスタント・プロフェッサーという職に就くわけ。このアシスタント・プロフェッサーは、アシスタントではない。これは単にそういう名前が付いてるだけで、アシスタント・プロフェッサーというのは実際には小企業の社長なんです。三つあるんです。アシスタント・プロフェッサーとアソシエイト・プロフェッサーとフル・プロフェッサーと三つ。普通の大学も皆そうです。三つランクがあってね。ところが、このそれぞれのランクに付いている研究者というか科学者の間には上下関係はないんです。上下関係は全くない。別のグループです。違いは、アシスタント・プロフェッサーは永久職じゃない。契約制なんです。6年ぐらいの契約で始まるんです。アソシエイト・プロフェッサーというのは大学によって永久職になっているか、まだなってないか、場所によって違う。だけど、その期間はわりと短い。3年ぐらい。それで、アシスタント・プロフェッサーとアソシエイト・プロセッサーを全部足して、普通で10年ぐらいやるわけです。
 そうすると、そこでこの人をフル・プロフェッサーにするか、つまり永久職にするか、その大学にずっとおれるようにするかどうか。テニュアを与えるかどうかを審査する。それに通ればフル・プロフェッサーになる。だいたいMITで全体で見ると40%です、テニュアをもらえるのは。60%は7~8年から10年ぐらいやってMITを出て行かなきゃいけない。別の大学へ職を探して出ていく。普通の大学もある。企業に行く人もいるけどね。
ハーバードなんかはもっときつい。ぼくはちょっとパーセントは知らないけど、MITのほうが高いことはぼくは知ってる。
 ただ、このアシスタント・プロフェッサーなりアソシエイト・プロフェッサーとして研究やってる8年から10年ぐらいの期間、その間に、例えば教授から、フル・プロフェッサーから、こういうことをやりなさいかと、ああいうことをやりなさいとか、この実験室はおれが必要だからおまえは立ち退けとか、そういうことは一切言われないようにできてるわけ。別々の組織になっている。実際、これはあちこちで言ってることだけど、科学の基礎研究の本当に独創性の高い、一つの物指しとして、例えばノーベル賞に値する・・ぼくの言ってるのは自然科学系ですよ・・物理、化学、自然科学を含む、そのレベルの非常に高いレベルの研究を見てみますと、そうすると、それぞれのノーベル賞をもらった人が、いったい何歳ぐらいのときにノーベル賞の対象になった非常に独創性の高い研究をやったかというと、これは簡単に調べることができる。論文になって出てました。ノーベル賞は実際にもらうのは、実際に論文が出てから10年から15年ぐらいかかっている。その間がね。つまり、評価が定着しないとノーベル委員会は賞を出さない。だからその間かなりの時間がかかるんです。だけど、実際やったのはいつかというのはわかる。それを見ると、だいたい3/4、75%は40歳までにやっているわけです。30代にやっている。30代というのは、今言ったテニュアをもらう前。つまりアシスタント・プロフェッサーやアソーシエイト・プロフェッサーがノーベル賞に値する研究の大部分をやっていると。それが事実なんです。日本でその歳の人間が、東大であろうが京大であろうが阪大であろうが、どういう職に就いてるか。彼はよくて助教授、たいがいは助手です。助手というのは、日本では要するに教授の小間使いなの。助手って、あんなくだらん職はなくて、教授の言われたとおりやらなきゃならないし、一方で学生の世話をしなきゃならない。雑用をやっている。
そのいちばんいい時期の大部分を、そういうことをやって過ごすわけ。そういうふうに過ごして、教授の機嫌をとって、それでいちばんうまくとった人が助教授にしてもらえるわけです。そういう制度に本質的にはなっているわけ。
 それで、聞くと、「いやあ、利根川先生、そんなのはあなたの知識は時代後れだ」と言う人がいるんです。言う人がいるんだけど、そういう人っていうのは非常に稀な例なのです。
だから、35歳ぐらいで教授になっている人もいるんです。だけど、それは非常に稀な例でね。それからもう一つ教授がよく言われるのは、「うちは助教授や助手に勝手にやらせてるよ」と言うのよ。うちはそんなハイアラーキーはやってないです。だけど、よく聞いてみると、それはうまくいってるときはそういってやらせてるの。ケンカをしたら助教授や助手が自分に刃向かったらもうみんな取ってしまう。だから、これは教授の恩情でやってたんじゃダメなんです。制度としてそうなっていないと。つまり権利の問題なんです。助手や助教授はその権利を持ってないと駄目なんだ。だから、ぼくは講座をなくすことが大事だと知ってました。
 ところが、今度は講座をなくすでしょう。そうすると助手や助教授が別になっちゃう。教授の下に学生しかいない。最近やっぱりポスト・ドクというのを増やそうというので増やしてるけど、プラス1万人計画とかいってやりましたよね。これ、実は増えてるんです。
 それで面白いのは、最近、もっと増やせってぼくが言うと、つまりこうなるとどうしても別々にするでしょう。そうすると教授が、学生とだけではなかなか一線の研究はできない。学生はまだ研究を指導しなきゃいけない。だから、アメリカのぼくの研究室は、今30人のうちの20人の研究者は、いわゆるポスト・ドクが主体なんです。アメリカのプロダクティブな、よく研究を一線でやってるところも、大部分ではポスト・ドクというのが研究の主体。大学の学生もいますけど、こういうとこが主体。
 教授たちが、昔、ポスト・ドクが日本で少なかったころに、助手や助教授をポスト・ドクとして使ってやっているわけ。自分の仕事をやらせているわけね。いなくなったらますます研究できなくなると言われた。だから、ぼくは、講座をただ潰したってダメだと。それと並行して、ポスト・ドクの数をわーっと増やさなければダメだ。それから教授には制度として秘書をつけないとダメだ。ご存じですか、日本には今でも、教授には秘書という職はない。それにおカネは行かないようになってるんです。ぼくなんかここへ来るでしょう。秘書が何か用事があって1日休んだとしますよね。だいたいぼくのプロダクティビティは半分以下になるね。どこに何があるかわからない。任してますからね。そのぐらい優秀な秘書というのは重要なんです。研究者でも、そのグループの、チームのリーダーぐらいになるとね。若いときはそんなもの要らないですよ、自分で研究やってるから。必要なのにそのこと自体が認められてない、政府にね。彼はパートタイムとかアルバイトとかいうのを、例えば企業から寄付をちょいちょいともらって、それでパートタイマー、アルバイトの女の子というのを雇って秘書代わりにしてるんだけど、そういう人たちはエキスパートの秘書にはなかなかなりません。5年ぐらいで結婚するとかって辞めていきますからね。だから、そういうふうにいろんなことを変えないといけない、同時にね。一個だけ変えたってダメ。それから、さっき言った学長に権限を与えろとぼく言うでしょう。学長にいくら権限を与えたって、一人の人間だから、それが何でもかんでもできるわけはない。
その場合に、ブレーンの制度を、アドバイザーの制度をフルタイム・アドバイザー。こういうふうに、1年にいっぺん来るなんていうアドバイザーは実は役に立たないということは、ぼくが蓮實さんに言えることなんて知れてるじゃない。そうじゃなくて、大学の中に・・。そらもうMITのスタッフさん、すごいですよ。
 ご存じのように、アメリカの大学は国から・・MITは年間のオペレーション・コストの40%は税金なんですね。私立大学だけど、40%が税金。ぼくらが研究費取ってくるでしょう、NIHで取ってくる。そうすると、最近ご存じだと思うけど、インディレクト・コストというのがある。日本語で何と訳しているか知らないけど、ぼくが1万ドル取ってきたとするでしょう。それに対して6500ドル、1万ドルの0.65、6500ドルがNIHからMITに入る。そういうカネを遣って、それが一つのMITを運営していく上の大きな収入になる。それとあとは寄付ね。MITの学長というのは、寄付(ドネーション)を集める活動がいちばん大きい活動。その下にCEO、チーフ・エグゼクティブ・オフィサー、MITの場合はプロボスト、この人がデイリーのいろいろなディシジョンをやっているわけ。
もちろん最終的には学長がオールマイティーだけど、任しているわけ。それ大変なわけ。その学長とプロボストとの脇を固めるために副学長というのがいる。バイスプレジデント。このバイスプレジデントがMITだと7人か8人いる。バイスプレジデントというのは、実はそんなにポジション高くないんですよ。バイスプレジデントは二番目に聞こえるけど、そうじゃなくて、プロボストはオールマイティーだ。バイスプレジデントというのは、要するにプレジデントに対するヘルパーなんです。それぞれだけど、ファンドレーティングの部門のボスとか学生のことにかかわるいろんな問題のボスとか決まってるんです。分業でやっているわけです。その下にまたスタッフが10人、20人とそれぞれいて、全体でこういう運営の集団をつくっているわけです。更にそれで学部長が、上からなにしろアポイントされてきてますから、レポーディング・システムというのははっきりしてて、つまりボスがだれかとはっきりしているわけです。学部長のボスはプロボストなんです。プロボストのボスが学長なんです。学部長の下にそれぞれ学科というのがあるわけです、バイオロジーでも。例えばスクール・オブ・サイエンス。学部長のことをディーンというんだけど、スクール・オブ・サイエンスのディーンというのがいるわけだ。スクール・オブ・サイエンスの中にマセマティクス、サイエンスですからマセマティクス、フィジックス、ケミストリー、バイオロジー、ニューロサイエンス、アース(・アトモスフィア)・アンド・プラネタリー・サイエンスかな、七つぐらい、日本で言うと学科というのがある。そこにまたヘッドがそれぞれおるわけ。そのヘッドも別に我々が投票するわけじゃない。それはディーンが決めてくる。一つずつ、一つ一つレベルの下のやつを決めていくと。それでトップ・ダウンになってくる。だから、非常に有能な人なら、いつも人気なんてなくても、人気あるんだけど5年ごとにリニューアルかな。だから、ディーンが決めるんですよ。ディーンが、「おまえ、もう5年やってくれんか」と。やると言えばやるしね。こいつはこのへんでやめておいて、別のにしたほうがいいなと思えば、ディーンはそれで5年たったら終わりと。途中だってクビにできるんですから。実際そういう例あるからね。うまくやりますけどね。あんまりエンバランスじゃないようにね、ほかの理由をつけて。そういうことがしょっちゅう起こっている。
 ぼくは大学というのは、アメリカの大学は会社ですよね。ノンプロフィット・オーガニゼーションです。もう会社。ただアメリカは、ご存じのように、特に卒業生が、金持ちになると大学に寄付をするという伝統がたいへん強い。これはぼくはキリスト教とも関係していると思うけどね。とにかくそれが強いんですよ。だから、ハーバード大学みたいな世界一金持ちな大学、今のアセットが20ビリオンダラーかな。MITが8ビリオンダラーなんです。彼らは、この辺のケンブリッジの土地の大地主なんです。その辺の銀行が建ってる土地だって、これはMITの土地なんです、実は。貸してやってるだけでね。そういうふうに専門家に投資しているわけ。今、アメリカは景気いいでしょう。あのおかげで、ここ5年ぐらいの間に、それぞれの大学がうまい投資家が、有能な投資家に並んで、アセットで2倍ぐらいになってるね。それはなるべく遣わないんですよ。それの運営の利子を遣って運営していってるわけ。そういうカネがあるからね。総長とかプロボストがどうしてもこいつをハーバードから引き抜きたいと思えば、いろんな手立てを、例えば家を買うときに半分カネを出してやるとかね。それはいろいろ巧妙な手段がある。カネは貸すけども、貸すということはローンということになってるんだけど、10年間MITにいればもう返さなくていいよとか、出ていかないようにいろいろなインセンティブがあってね。いろんな話知っとるからさ。いろんな方法があるから。そういう方法を使って、いかにしていい教授を集めるか。いい教授を集めればいい学生も来るわけです。いい研究ポストとかも。


良循環ができ上がってるんですね。

利根川進 教授

そう。そういう非常に私企業的な運用をしている。だけど儲けてはいない。カネ儲けはしてない。


アメリカではお金というのは、一つの客観的な評価の物指しになってますよね。ただ日本の場合は、いまだに金額の多寡での評価を嫌うというか、受け入れにくいところがありますよね。むしろ仲間内での非常に主観的な、名誉というのか、功成り名を遂げるというのか、そういうものに収斂してしまって、客観的な評価基準なんて全然相手にされない。それより自分たちのムラで良いとされるかどうかがすべてで・・。

利根川進 教授

大学の中の業績に関係なく、ハイアラーキーできてるんでしょう。


大学だけでなく、どこでもその傾向は強いですね。島国根性というんでしょうか、実に視野が狭く、近視眼的です。

利根川進 教授

いや、だっていくら阪大の教授が素晴らしい研究をたくさんやったって、阪大のほうが東大より上というふうにはならないようになっている。だから、これは研究者の間では、ほんとに研究者の間では、おれは東大なんか行かないと、京大へ行きたいという人は実際いるんですが、もちろんいいに決まってるから。我々は関係ないからね。というのは、世間一般の評判までそれがしみ通るには何十年とかかるわけで、マスコミを含めてね。
それはそのへんの中には父兄の影響が大きい。だっておれは東大へ入れるけど、阪大へ入るとか言ったら 100人のうち95人は自分の息子を東大へ入れると言うでしょう。


少し変わってきたかもしれませんが。

利根川進 教授

でも、学生自体が変わってきてる。


そう、何を勉強したいかで。

利根川進 教授

偏差値があまり高かったから何も知らずに医学部へ入っちゃった。理Ⅲか。入ってみたら、注射してるの見ると怖い。


真っ青になっちゃう(笑)。

利根川進 教授

おれ医者は向かない。実はぼくとかも、ぼくは東大じゃないからさ、東大に対するすごいコンプレックスがあってね(笑)。だって、ぼくなんかずっと前の人間だからな。
ぼくらが高校生のころは、ぼくは日比谷高校だからね。日比谷高校というのは、あのころは東大。ほとんど全員東大を受ける。ぼくともう1人だけだ、東大を受けなかったのは。京大受けた。それで、みんなにバカにされたもん(笑)。


そういうやっぱり時代背景というか、世論の圧力に抵抗して自分の考えを通すのが、いつの世でもものすごくしんどいんですよね、日本って。でも、そんな時代でも利根川先生はご自身の思いを通された。

利根川進 教授

だから、この野郎と思ってね。ぼくのところへ東大の優秀な学生が、何かここでやりたいと来るから、チクってやる。「おまえ、東大か、ちょっと無理だな」とか言って(笑)。
だけど、東大はぼくは良い大学だと思いますよ、ある面ではね。なぜかというと、今言われたように、昔は東大・・。ご存じですか、日本には学閥があるでしょう。つい最近までは、今、統計は知らないけど、例えば90%以上は東大教授は東大出身なんですよね。特に文科系がきつい。理科系は今、背に腹は換えられない状態になっている、東大はね。だから、最近いろんなところから入れてる、よそからね。その結果、実際よくなってる。それは彼らは認識しているわ、それをね。
 だけど、それにしても、信じられないぐらい日本は人間が動かないです。これを言うと驚かれると思うけど、アメリカでは、例えば我々の研究者の一生を見ていくと、例えばあるところで大学でしょう。ハーバード大学へ行った、MIT大学へ行った。学部ね。その人はもし研究者になろうとしたとする。そうするとまず大学院へ行かなければならない。MITで卒業した、学部を卒業した人は、原則的にMITでは大学院に採らないんです。よそから採る。長い間そういうふうになっている。


仕組み自体がそう確立してるんですね。

利根川進 教授

それで、大学院にMIT入るでしょう。卒業、PhD取るでしょう。そうしたら、その次のキャリアは、あと3年か5年ぐらい武者修行に行くわけ。ポスト・ドク。これはまたMITには残らないわけ。別のところへ行く。そこでポスト・ドクを終えてだいたい30歳になる。そこで初めてアシスタント・プロフェッサーの、いわゆる本当の研究者の、独立した研究者の職を探すわけ。そのときに、MITで今ポスト・ドクをやってる人間、ここでぼくの研究室を含めてね。彼らはMITの教授には普通しない。採らない。よそから採る。そしてアシスタト・プロフェッサーになるでしょう。それでテニュアもらう人は残る人もいるね。もらわなかったらまた出ていくわけね。だいたいアメリカは、ぼくもそうだけど、いわゆる教授職というか、研究所なら研究職員というかな、いわゆる大学の先生になるでしょう。一生同じ大学にいる人っていうのはほとんどいないのね。必ず1回か2回替わる。引き抜かれていくわけ。特にいい人は替わっていく。ぼくだって30代はスイスでやってましたからね。独立してスイスで研究室を持ってやった。それで、40歳のときにMITとハーバードとコロンビアと、日本が同じときにオファーがあって、その中から選んで、ぼくはMITに来た。それからずっと、自分の一生の中でいちばん長くいたのはMITなんだけど、学部、大学院、ポスト・ドク。それから最初の10年間の研究者と、それから後と、大学の学部を含めて5ヵ所でやってきているわけね。これが普通なんです。
 なぜそういうふうになっているか。これは長い経験からそういうふうに人間を動かしたほうが研究に役立つからそうなってる。分かっている。それは簡単なことで、ぼくは学生にもいつも言うけど、学生に5年間一緒にいたら言ってやることはない。ぼくから引き出すことは何もないと。「おまえ、おれといてもしょうがないよ」、そういう状態になるわけ。あの先生はああいうふうにやるのかとだいたいわかるんですね。もう教えることなんていうのは何もない。だから別のとこへ行ったほうがいいよ。別の先生について、その先生から物事を盗んだほうがいいよと。それはもう現実なんです。そのことはわかっているから、有能な若い研究者は1ヵ所にはいないんです。なるべくいろいろ替わる。
そんなに毎年替わるわけにいかないから、数年ごとに替わっていくわけ。ところが、日本の制度は全く逆なんです。さっきも言ったように、助手や助教授になれる人というのは、教授にとって使いやすい人をそういうふうにするという制度になってる。
 それから、これはもうずいぶん前だけど、東大が何か改革しなきゃいけないというときに、東大の副学長という人が、ボストンへぼくを訪ねてきたの。それで、ハーバード、MIT、ここに日本人の若い教授も含めて10人位いるんです。文科系も全部含めて。我々みんなジャパニーズ・レストランでディナーを招待された。そこでみんな・・。広中平祐って知ってます?


はい。

利根川進 教授

彼もいたし、この前、残念ながら亡くなった、すごい有能なMITの物理の先生、田中豊一って、死んじゃったけどね。彼は東大出身なんだけど、とにかく何名か集まってみんなで、アメリカと日本の大学の違いというのを話をしたわけ。そのときに今言ったような話が出て、もちろん我々はここで、東大であろうが京大であろうが、みんなこういうことはよくわかっているわけです、その違いが。日本の制度と比べてアメリカの良さというのはわかっている。だから、みんな同じようなことを言って、日本が大学院の学生を、今は少しはよくなっているかもしれないけど、とにかく日本の大学院というのは、東大、東大と言ってるけど東大ばっかりじゃない。ほかの大学も皆そうなんだけど、そこの学部を出た人たちがそこの大学の大学院に入るようになっているんです。90%以上だと思う。
これはよくないとぼくらはみんな言ったわけよ。こっちではそうなってない。さっき言ったように、学部でスタンフォードを出たらMITへ行くとか、ハーバードへ行くとかするんで、人間が動くと、動くことによって、新しいインタラクションができる。そういうふうにしたほうがいいと。
 そうしたら、その副学長の先生が、「でも、学力の違いをどうしますかね」と言ったわけよ。つまり彼が言うには、東大の学部の卒業生はほかのどこの大学よりも学力が抜きん出てると。だから、わざわざそんな学力の低い学部の学生を東大で大学院で面倒をみるのは東大としてはばかげてるということを言った。それで、ぼくらは広中先生も含めてみんなあきれちゃってね(笑)。「学力って先生、どうやって測るんですか」。特にこういう研究者なんて、ぼくらのやってるレベルになると、数学のある公理が30分以内に解けるか、それとも1週間ぐらいかけないと解けないか、あるいは永久に解けないか、あんまり関係ないんですよ。そんなことは関係ない。解けるか解けないかの問題じゃない。問題は、何か重要な問題に気がつくかどうかなんです。どういう問題を、質問をすれば、それに向かって、それに答えようと思って努力して答えれば、素晴らしい発見になるか。そういう問題を設定するのが難しいんで、ある問題を、決まっているのを解くなんていうのは、そんなのはもうだれか知ってるわけだから、ほかの人が解いてるわけだからね。そんなのは発見にも何もならない。そうじゃなくて、新しい発見をするということは、新しい問題をまず設定するということなんです。そういう能力と、ある問題を解く能力というのはあんまり関係ないんです。特に、速く解けるなんていうのはぜんぜん関係ない(笑)。
 これが、やっぱり・・この人は工学部の先生だったけど、彼にはそういうことさえわかっていないということがわかって、ぼくらは、その中ではみんな笑いましたけどね。これは十何年前だから変わってきているとは思うけど、これが要するに日本のハイアラーキーのブランド指向、それから入学試験、それから小さいときからの教育の理念、どうやって
問題を速く解くかということをずっとやってきているわけ。入学試験とかみんなそうだな。
そういう価値観にどっぷり使っている人には、そんな独創的な研究は無理です。だって独創的な研究やるためには、そういうところでセレクトされた人がよくやるわけじゃない。そうじゃなくて、そういうところで落ちこぼれた人の中にそういうことがよくできる人が出てくる。みんなサプライズしているわけ、日本の社会を。


そもそも日本が目標として走ってきたゴールそのものが、独創的な研究を育む土壌とは正反対なわけですから根が深い問題ですよね。ただ、解くべき問題を設定する力よりも、とにかく速く答えを出すのが大事なんて教育になってしまったのは、そんなに昔のことではないと思うんですが。

利根川進 教授

だから、ぼくは教育までいかないとダメだと言ってるんです。だから、今の世代でいっぺんに変えようなんていったって無理な話で、まずそういう人間を育てないといけない。自分と毛色が変わっていてもおもろいなあと思える子供をまずつくらなきゃダメです。毛色が変わってるわいと、けしからんからいじめようというのが大部分だから、それはやっぱり非常にスタンダードをインポーズしているからなのよ。みんなが同じようにゲームするように子供が洗脳されてるの、はっきり言って。ぼくは最近、脳の研究やってるからわかる。面白いんだけど、人間の脳なんてね。脳っていうのは、結局、人間のいろんな精神的な活動の基盤になっているわけね。これは遺伝子によって機能は大体決まっているんですよ。大体の枠がね。それに加えて、いわゆる教育というもので--教育というものは広い意味でね--親が何をしゃべったかとか、そんなことまで・・。


家庭環境はもちろん、子供を取り巻く環境すべてが教育という?

利根川進 教授

要するに脳という機械があって、そこへ外からいろんな情報が入ってくるわけ。その一部が記憶として残って、あとで使われるわけ。そのプロセス、環境からの影響、これがすなわち教育なんです。確かに遺伝子の枠というのは非常にきついものがある。簡単な例で、いくら興味があって、一生懸命練習したって、ヨーヨー・マのレベルに行く人というのはものすごく限られてる。あれはもう遺伝子で決まっちゃうんだよな。彼はその遺伝子のセットを持っているわけ。それがうまく発現してきたと。持ってても発現しない人もいるんだけどね。彼の場合ははっきりそうです。あのレベルへ行く音楽家というのは、あれはいくら教育したってダメなんだ。いくらトレーニングやったって無理。これはもう遺伝子のレベルで決まっている。あのレベルへいくとね。研究者だってそうだと思うけどね。非常に独創的なことをしょっちゅうやる人が、これは遺伝子のセットが違う。
 だけど、もうちょっと一般レベルまでいくと、どういう教育をしたかによって、人間のその人の能力とか個性とか、その人が基盤的に持っている価値観、こういうことはいいと思う、こういうことはいかんと思う、こういうことは一生懸命やるべきだと思う。こういうことはつまらん。毎日毎日、そういう価値観をみんな行使しながら人間は生きているわけ。だから非常にコンサバティブな人もいればリベラルな人もいるしね。すぐあきらめる人もいるし、なかなかあきらめない人もいるし、凶悪な人もいるし、純情すぎる人もいる。
いろんな人がいるわけね。だから、遺伝子である程度決まっているけど、結局は、どういう教育を受けてきたかで、その人がどういう行動をするか、どういう基準でものを判断して生きていくか決まってくるわけ。
 それで、わかってきたことは、脳というのは非常にフラジャイルなものなんですよ。フラジャイルという意味はどういう教育をされるかによってずいぶん変わった人間ができてくるものなんです。もちろん遺伝子の枠はあるけど。遺伝子の枠は超えられないよ。だが、悪い遺伝子をもらって生まれてきたら、これはもうどうしようもないことなんです。そういう意味で大変なことだ(笑)。親が子供に与えられる最高のプレゼントは、いい遺伝子をあげることなんです。だから、いいパートナーを選ばなきゃダメ、子供をつくるときは(笑)。
自分のある中で、自分はもう生まれてきた遺伝子を持ってるからどうしようもないわけだ。遺伝子治療でもやらなきゃ変えられないわけです。だけど、その中でどうやってその人のポテンシャルを発揮させるかと、それが教育なんです。そのときに、生物を勉強すると非常によくわかるんだけど、集団の中で多様性というのはものすごく重要なんです。多様であるということは重要なんです。ある集団があって、人間でも何でもいいんだけど、個々の個体の能力なり特徴なりビヘイビア、何でもいいんだけど、多様であるということは非常に重要。
 なぜかというと、環境が変わるでしょう。そうすると、みんなが同じだったらみんなばったり倒れちゃう、ある環境が変わると。ところが環境が少々変わっても、多様だと、滅びるのもいるけど生き延びるのもいる。変わった環境により適合してて、むしろのさばってくるものもいる。そういう意味です。これは生物の進化。進化というのはそういうふうにやって起こってきているわけ。それは、進化という長い期間を見なくたって 100年ぐらいのある1国の状態を見ても、同じような現象が起こっているわけ。だから、ご存じのように、帝国というのは数百年以上は続くことはない。あれはいろいろな環境が変わってくるからです。つまり、ステディーステートにはなってない。いつもダイナミックな状態になってる。ある状態からずっと動いている。世界、人間の社会も。その期間に非常にたまたま適合して。今、アメリカは適合しているからすごいのさばってて、彼らは永久にこの状態が続くと思ってるけど、歴史を見ればそんなことはあり得ないわけで、何百年か知らないけど、必ずこの帝国は滅びます。どうやって滅ぶかはわからないけど、ぼくはアイディアあるけどね、どうやって滅ぶか(笑)。彼らはものがありすぎて滅びると思う。
 例えば、アメリカ人ってものすごくものが余っているから、みんな太ってるでしょう(笑)。一生懸命になってヘルス産業もものすごいね。あんな産業あったって大したことないんだ、あんなもの。彼らは、ものがある限りはみんなそれを摂取しちゃうからね。ぼくは彼らはそれで滅びると思う(笑)。だからものがもっと限られたところの人間のほうが強くなってくる。そういう形で、ぼくはいずれは滅びると思ってるんだけどね、わかんないけど(笑)。
そもそも多様化というのは重要なのよ。だから教育の理念はもっと多様化しないといけない。そうしたら試験をあまりやっちゃいけない。試験は読み書きそろばんぐらいにしといて、基礎知識だけ教え込んで、あとなるべく・・。入学試験なんてぼくに言わせればあんなものは読み書きそろばんだけ試験やって、一応ある程度のレベルの知識なり能力を測ると、それはぼくはいいと思う。例えば、研究者になろうと、国のリーダーになろうと思ったら、ある程度の能力がなかったらなれないからね。じゃ、大学というのは特に、日本は駅弁大学なわけで、やっぱりアメリカだって20個ぐらいの重要な大学というのはあるわけ。そこの卒業生たちがやっぱり国をリードしているわけ。全体的に見ると。これはまあしょうがないわけ。人間というのは、ルソーなんていうのは間違ってて、生まれながらにして同等じゃないんです。全然違うんだから。(笑)。だから能力を持った人がやっぱりリードすると。これはしょうがない。動物の世界といったって、サルのコロニー見たってそうなんだから。人間だって動物ですからね。それはそうなる。だから、大学にも、ぼくは日本は重要な大学というのがあっていいと思うんです。ただ、アメリカのやり方は台形になっているわけ。トップが、20個ぐらいが・・。ハーバードって有名だけど、有名だからってハーバードがいい大学とは限らないんですよ。部門によって全然。理科系なんてよくないんです、実は。古いから有名だけどね。それから文化系が強いから、だいたい国のリーダーになる人というのは文化系が多いから、理科系の人っていうのはエンジニア・・大会社の社長だって少ないですよね。これから変わるかもしれないけどね。今のところはそうなんです。
 それと同じで、日本も大学が台形化しないといけない。上のトップの10大学ぐらいの間で人がどんどん行き来していると。アメリカはそうなってる。20個ぐらいの間で、人が行き来する。学生も行き来してるし、研究者も行き来している。教授も行き来しているわけ。そうすることによって競争している。そういう状態に日本を持っていかないといけない。
 教育もやっぱり、そういうふうに・・。だから入試なんていうのは、ぼくは、今言ったように、基礎学力の試験はやってもいいけど、あとは結局、二つあるんです。一つは何か書かせるわけ。いわゆる小論文。例えばMITだったら、あなたはなぜMITへ入りたいのか、ほかの大学ではどうしてダメなんだ、というような質問をするわけ。それについて5ページぐらいタイプ打って書かせる。この中に、MITは有名な大学だからと書いてあったらあまり点は高くならない。やっぱり何か自分でどのぐらい考えてMITを受けてきたかというのはそれを読むとわかる。だから、結局考えている子を採るということだ。自分で考える習慣をつけている子供を採る。それが一つ。
 もう一つは面接。ものすごくぼくらは時間使うんです。たくさん来ますからね。一応、書類で絞るんだけど、実際に採るのの4倍ぐらいは面接するわけ。ものすごく労力かかります。日本はよく言われるのは論文の点をつけたり採点をしたら、客観的評価ができないと言われる。公平な評価ができないとよく言うんです。○×式でこうやっていけば数字が出るから非常に客観的だというわけです。これはぼくは基本的にその考えが間違っていると思う。
 それは何を言おうとしているかというと、そもそも人を評価するのに、アブソリュートな客観性なんていうものはない。それをまず認めないといけない。MITにはこういう先生がいるよと。彼らが評価しますよと。彼らが彼らの考えで、彼らのビジョンで、彼らの独断で評価しますよと。それでオーケーという人がアプライしてくるべきで、アブソリュートな客観性なんてあり得ない。その中でそうしたければおいでくださいといってるわけでね。もちろんぼくなんて評価するときも、客観性なんてありっこないですね。むしろ好き嫌いなのよ。それは、好き嫌いというのは、かわいいから好きとか、そのレベルのことを言ってちゃダメだけど、やっぱり彼らが、彼が言うことが面白いと、この学生が言うことが何かおもろいこと言うなあ。「おもろい」という大阪弁がまさにそれを反映していて、なんかこっちが思ってなかったことを言うとかね。あの子、何かここはなかなか面白い子だなあと思うようなことを言う子というのは、やっぱり一緒にやってみたいと思うからね。
それが価値の基準なんです。ぼくがなぜそれをおもろいと思うか、そんなことはおれの知ったこっちゃないというか(笑)。先生の面白い、面白くないと決めてもらっちゃ、そんな不公平なことをしてもらっちゃ困りますなんて言ったって、それ以外にぼくはひとを評価する方法があるかね。ないでしょう。ぼくに評価しろと言うんだから評価しているだけでね。それをまず評価される側が認めないといけない。
 だから、ぼくは面接というのは非常にいいと思う。面接をすればだいたいわかりますからね。そうすることによって、もっと多様な面接する教官が20人いれば、それぞれ違う。好き嫌いあるからさ。けっこう多様な価値を持った子を選んでくることができる。だから、日本のあれでしょうね。いわゆる戦後民主主義の悪平等の結果を反映しているんじゃないだろうか。ぼくはだんだん、こういうふうに言うと、反民主主義みたいになってきて、トップ・ダウンでやれと言うでしょう。それで、もともと客観性なんかないと言うでしょう。だけど、ぼくはそのへんにやっぱり真理があると思うよ。


これまでは非常に画一的な、社会主義かとみまごうようなそのシステムが、国際競争上功を奏していたので良しとされてきてしまったのだと思いますが。今まさにその高いツケを払わされている感がします。とにかく上から言われた通り、周りの人がしている通りに行動する。それが一番だし、そうでないと制裁を受けるという刷り込みを、長年されてきてしまっていますから、日本人は。

利根川進 教授

それは、ご存じのように、日本が明治以来、先に手本にした目標があって、それに追いつこうと思ってやってきたからそれはできる。何をやるかだいたいわかっていれば、さっきも言ったように、みんなで協力し合って、我慢をし合って、私的な、個人的な都合をなるべく抑えてやっていけば、それから日本人というのはよく言われることだけど、明治以前から非常に読み書きそろばんのレベルは高かった。基礎的な能力はみんな持ってた。
非常に優秀なリーダーはたくさんはいなかったけどね。何をやるかわかっていればあまりリーダーは要らない。だいたいそこそこの能力があればみんな寄ってたかって解読してやればできるから、それでやってきてうまくいった。だけど、前人未到のところへ来ちゃったら、やっぱりそういう能力を持ったリーダーがいなかったら何やっていいかわかんないでしょう、烏合の衆になっちゃう。


情報化やグローバル化が進んで、社会の変化のスピードがとても速くなってて、国も人も皆、自分なりの羅針盤というかビジョンや価値観をしっかり持っていないと渡ってゆけない世の中になって来てますよね。そういう中で、追いつき追い越せ型の日本は、どうしても方向性を失ってしまう。そもそも自分はどうしたいのか、どんな国になりたいのかというビジョンが無いまま、ただただ他の国に遅れをとってはいけないと右往左往しているのが現状で、でも焦れば焦るほど本質的な問題点は後回しにされて、お手軽な制度改正でお茶を濁してしまう。それがまた更に、日本丸の再生を遠のかせているという悪循環で。

利根川進 教授

いや、だから今恐らく何となくそういう気配があるんじゃない?


ええ。ただ、とにかく日本丸の沈没を回避できるかどうかは、とにかく時間との戦いでして。で、一番の問題点は、先ほどのお話の通りそこそこ幸せなんですよね、日本って。
もう驚くほど、危機感が無い。まさしくボイルド・フロッグ(煮蛙)そのもので、ゆっくりと茹って行って、それでもうじき終焉を迎えるのかなと。そこはかとない不安感は人一番持っているくせに、現実を直視しようという気が、大衆にもマスコミにも無いので、ここは一つみんなでグッとこらえて、思い切った構造改革をしようといった気運はまったく盛
り上がりません。

利根川進 教授

それは政治家が頑張らないとダメだと思う。


確かにそうだと思いますが、現実の話、「さあ皆さん、痛みを分かち合って構造改革しましょう」と言ったとたんに、選挙で落とされますから(笑)。それに政治家も役職を上り詰めていく間に、リーダーシップをとれるようなタイプの方というのはそのほとんどが排除というか、淘汰されてしまってますし。

利根川進 教授

そうですよね。


何か出口が見つからない話になってしまいましたが。

利根川進 教授

だから、そういう意味では、さっき言ったトップ・ダウン、トップ・ダウンとぼく言ってるけど、国の政治のやり方ももうちょっとトップ・ダウンなんかもいいと思うけど、大統領制度みたいに。


やっぱり根本からシステムを全取り替えしないとダメなんでしょうね。

利根川進 教授

大統領が替われば、全部ゼネラル・ガバメントも替わっちゃうでしょう。だから、そういうふうになっていい人が大統領になれば--ビジョンのある人が--欧米並になるかもしれないけどね。だから、変わるのが遅いですよね。大学の中でもほんと遅いわな。
今、独立法人化なんてやってるでしょう。ぼくは大学についてだけ言うならば、変えるためのチャンスだと思うんですよ。チャンスだと思うんだけど、両方からのそれぞれ違う思惑で反対というようなことがけっこう強いんですよね。
 ぼくが一つこれが言いたいということは、大学というとこは、やっぱり特にさっき言ったトップというか、第一層の10個か20個ぐらいの大学は、非常に長い国の未来をつくっていくための知的なインフラストラクチャーをつくっているものであるというふうに位置づけるべきだ。そういうものなんです。だから、そのためにはさっき言ったように、ぼくは競争の原理というのは導入しないといけないと思うから、そのためには国の力を弱めないといけない、国のコントロールの力を弱めないと、もっと私企業化させないといけない。
独立法人化というのはそうなんです。だけど、それと同時に、国はカネを出さなきゃダメ、税金を使わなきゃダメ。NIHのカネというのは、ここは年間の運営費の40%は税金でやってるんだけど、それは国から全体的な大学の運営についての、例えば男女の差別をしてはいけないとか、ある安全措置をとらないといけないとか、そういう枠、法律はありますよ。だけど、日々の運営についてはそれぞれの大学のやり方にすごく任されているわけ。
だけど任されているからといって、日本のいい加減な私立大学みたいな、すごいボスがいて、場合によっては大学の財産を私有化しちゃうとか、そんなことは起こらないわけね。それは監視装置ができているからそういうことは起こらないわけ。そういう意味では非常にヘルシーな運営がされているわけ。私立であるにもかかわらずね。文部省なんかに言わせると、そんな大学私物化して勝手なことをしたら、えらいことになっちゃう可能性があるというようなことを言うんだけど、そうなってない、実は。それはやっぱり伝統とレピュテーションというのがあって、ちゃんとコンストレインがかかっているわけ。やってはいけないことだと。
 数年前にスタンフォードの学長が、大学のカネで接待のためにセールボートを買った。豪華ボートを買ったのがバレて、クビになったということはありました。ものすごくモメてね。なんかものすごく優秀なアドミニストレイターらしいんだけど、何かの間違いでそういうことをやっちゃって大問題になってクビになったことがあるんだけどね。一般的には非常にバランス感覚のある人がトップになってる。


大学側のガバメントの成熟度ももちろんあるとは思いますが、それにしても、日本だと私学はもとより学校に対して、国はカネは出さすにとにかく口だけは出しますよね。これをどう変えるか、実に難しい問題で頭を抱えたくなります。

利根川進 教授

やっぱりアメリカの大学に対する、フェデラル・ガバメントの態度は、はっきり言うと、今言ったように大学というのは非常に国の基盤の重要な部分を担っているところだから税金は使う。しかし、なるべく口は出さないようにやってもらうというふうになっている。
 よく言われることだけど、アメリカにあるいろんな、いわゆるインスティテューションね、コングレスとか裁判、司法とか行政とかいろいろありますよね。それインスティシューションの中で最も素晴らしいのは、うまくいってるのは大学制度だとよく言われます。アメリカの大学ってほんとにうまくいってる。それは歴史的ないろんな理由があってたまたまここまで来たとも言えるけどね。トップの20ぐらいの大学は、そういう意味で本当に素晴らしいですよ。リーダーを育てて、しかもスキャンダルはめったになくて、世界中からタレントを集めて、しかも競争しながら世界の知的な財産のリードをしていると、ほんとにそう思う。だから、集まってくる学生も、例えばMITなんかほんとに素晴らしい学生が来る。素晴らしいという意味は、単に頭がいいという感じじゃないんだよな。やっぱり自分の意見を持っていて、よく考えていて、非常に、英語で言うとマチュアーな(成熟した)感じ、子供っぽくない、よくものを考えてて、知的な欲求の強い、それでいてモデレートで、威張ってなくて、何でも習いたいという態度、非常に素晴らしい学生がほんとに多い。日本の大学の学生がたまに来ると、非常に子供っぽい感じがする。ぼくはまあぼくが年取ったからそういうふうに思うんだと思うけどね。思うけども、ぼくも学生のころはあんなに子供っぽかったかなあと思うような学生が来ますよね。それで、やっぱり見てるといい子なんだけど、非常にひ弱な感じがする。自分の考えを持ってないんですかね。先のことを考えてない。あるいは思い切って何かをやろうとしない。
 この前、東大の非常によさそうな学生が訪ねてきて、ぼくは研究者になりたいと言うわけです。ところが、その彼は医学部なんです、医学部でも基礎研究をやってますからね。それでぼくに、MITに、大学院に留学したいと言うから、いろんな話をしていて、アメリカのいい大学に入るためには、さっきも何べんも言ったけども、単に大学の成績がいいばっかりとか、あるいは学部長の紹介があるとか、それじゃダメなんですよ。だいたい東大・・そう言っちゃ悪いけど、東大をそんなに重要視してないからね、こっちの、トップ大学は。確かにアメリカの中の非常に評判の高い大学で、オールAだと、だいぶ底上げされますけどね。やっぱり大学の大学だから、そんなにされないね。されるとこがあるとしたら、オックスフォード、ケンブリッジぐらいかな。やっぱりアメリカというのはあっちは宗主国だから、非常に一目置いているんです。それはあるけど、別のところへ行ったらあまり関係ないですよ。だから、いちばんいい方法は、これは中国人が・・中国人というのは逞しいわけ。中国人の学生というのは今たくさんアメリカへ出てきてるね。東洋人ではどんどん増えている。ほとんど中国人か韓国人です。日本人は非常に少ない。彼らはものすごく逞しくて、どうやってアメリカのいい大学へ入るかということを作戦を練っているわけね。作戦を練って、一歩一歩それを踏んで入ってくるわけ。例えば、学部のときに彼らは地方大学に入るわけです。地方大学ならまだ入りやすいんです。
それで、そこでいる間に有名大学の先生とわたりをつけるということをやるわけ。それで、夏休みの間にアシスタントとして働きたいと。タダでもいいから2ヵ月ぐらいアシスタントとして--テクニシャンと言うんだけど・・行かしてくれないかという応募がいっぱいあります。そこへ行くでしょう。本人ができる子なら、中国人であろうが何であろうが、できる子なら2ヵ月働くことによってそこで人と知り合う。例えば、ぼくなんかが、こいつはいいよという手紙を書くと非常に入りやすくなる。向こうが、ぼくがどういう人間で、うちの研究室がどのぐらいのことをやってて、ぼくがどのぐらいのスタンダードを課する研究者であることを知ってるから非常によくなるんです。そういうことを狙って皆来るのね。1年でダメならもう1年やるとかね。そういうふうにしてアプライしてきて、だから、いい大学、大学院のレベルになると中国人とか韓国人が多いんです。日本人も昔はそういうハングリー精神があった。ぼくらがアメリカへ来たころは。今は日本がよくなりすぎて、生活しやすくなりすぎたから、日本人はなかなかそういうリスクを負わない。
 その子も、アメリカの大学へ入りたいと言うわけ。そこはまあ普通の子よりもかなりアンビシャスなんです。野心がある。ぼくは言ったんです。「あなたがここへ入るためにはぼくが言ったって効果は薄い」って言ったの。日本人だから入れようとしているってどうしても思うから。ほかのプロフェッサーを知るべきだ。そのためには今の学部をちょっと休学して、ちょっと働くからと言ってラボへ応募してみたらどうかって言ったの。そうしたら彼は、ぼくは医者の国家試験を11月に受けて、12月には卒業試験を受けてどうのこうのって、ずーっとスケジュールがいっぱいで、そんなことやってる暇がないと言うわけ。
ぼくはだから彼に、あなたは研究者になりたいのか、医者の勉強が必要なのかどっちか決めろと言ったんです。そんなどっちつかずでやってたらできないよと。だから、そういうところがまだリスクを負って自分の能力に賭けをするところまでは決心がついてない。「おまえ、研究者になるなら医師の国家試験なんか要らないんじゃないか」とぼくは言うんだけど、彼としては、ここまでやったから、親も悲しかろう。将来、医者になれることを滑り止めとして置いておきたいというような気持ちがある。


ま、気持ちはわかりますが。

利根川進 教授

だから、それじゃ無理だな、というのがぼくの考え。もうちょっと・・。自分の人生だってギャンブルですからね(笑)。そんな安全性をいつも考えているようじゃ思い切りできないですね。だから、彼にそう言ったけど、どうするか知らないけどね。


自分が本当にやりたいことは何かなんて、いままで自問自答したことなんてないんでしょうね、その学生さんは。もっともそんなことをしてたら、東大医学部の難しい試験には受からないんでしょうけど。

利根川進 教授

ただ、日本はそういう意味で、さっきも言ったけど、なまじっかやってけるからさ。だから、逆に切羽詰まってない。若い人もね。だから、韓国や大陸の中国なんかは、いくら能力があったって、世界の第一線の研究者にはなれないということをみんな知ってるから、リスクを負って出てきますよね。やっぱりその中にはすごい能力のある子がいるからね。中国人て、よく言うんだけど、今から10年から15年ぐらいしたら、アメリカの有名大学の教授の何十%は中国人になるだろうと言ってますよ。今のレベル、ポスト・ドクのレベルの、これが教授の予備軍ですからね。その中に優秀な人がどのぐらいいるかということを計算するとそうなるんです。


日本というムラの枠をはずして、自分の頭と感性で、価値判断したり行動できる子たちがもう少し増えれば変わると思うんですが。日本人ももともとの能力は高いですよね--ま、何が能力かはわからないですが。

利根川進 教授

だから、そういう意味でぼくは子供っぽいと思うのよ。やっぱり自分で道を切り拓いていこうというような教育をしっかり受けていない。レールに乗っていい遺伝子を使って、いい親のいい家庭環境を使って、入学試験に通って、ある程度の資金の援助もあるしね。よく言われるんだけど、今、東大の学生の家庭というのはみんな金持ちですね。すごく金持ち。だから、もうちょっとそういう意味のハングリー精神が逆に減っちゃったからね。30年前、ぼくらのころは、ぼくはアメリカに最初に来たときに、食うものがいっぱいあるんで、しかもぼくは一銭も自分のカネ遣ってない。アメリカからフェローシップを・・。
そもそもこっちの大学院、有名大学の20個ぐらいの大学の理科系の大学院の学生とか、自分のカネ、一銭もなくてもやっていけるようになっているわけです。つまり、大学からカネが出るようになっている、生活費。高くはないよ。でも自分が食っていくだけ。ぼくは1967年に初めて来て年間2300ドルもらったわけ。そのころの大学卒業の初任給の 2.5倍だったよ。立花隆が計算してたけどね。大体 2.5倍ですねと言ってたけどね。それで、ぼくはスーパーマーケットに行って、食料買い出しに行くわけ。下宿してたから、自炊してたからね。こんな天国あるかと思ったもの、それでチキンの丸焼きでも何でも食えるしね。日本では京都大学の西部食堂というところでうどんとごはん食べたから、毎日。そのぐらいあのころと今とは、アメリカと日本の経済的な較差が縮まっているわけ。日本でやっていけるからね。だから、みんなやっぱりリスクを負わないんですね。なかにはいるけど。


生活レベルが落ちるようなそんな苦労をしてまで、自分の思いや信念を通そうとは思わないんでしょうね。経済レベルの向上と引き換えに、夢を失ったんでしょうか、日本は・・。

利根川進 教授

それでいて、よくノーベル賞なんて日本は少ないでしょう、確かにね。あれは日本が差別されてるというようなことを言う人がいるけど、あるいはなかには、これは蓮實総長が書いた「文藝春秋」の記事の中で、彼が誤解してたことで、今度会ったら言ってあげようと思ってるんだけど、日本は外務省がけしからんというのよ。
外務省がけしからんからノーベル賞が少ないっていうんです。これはなぜかというと、彼の考えでは、日本にはたくさん候補者がいるんだけども、どうも宣伝が下手だというんです。キャンペーンが下手だと。これは全くの誤解で、彼は自分がノーベル賞獲得促進連盟の理事長になったら、これから5年ぐらいの間に10人ぐらいノーベル賞受賞者をつくる自信があるんだなんて書いてあるけど、あれは全くの間違いで、ノーベル賞というのはキャンペーンをしたら絶対ダメなんです。平和賞は別だよ(笑)。佐藤栄作さんはキャンペーンでもらったんだけど、自然科学系は全く逆。ということ、関係ない。ぼくはやっぱり過去において、歴史においてはもっと昔、日本人、ノーベル賞をもらうべき人はいたんですよ。ぼくはよく知ってる。自分の分野だったから。日本に北里研究所てあるのご存じですか。北里柴三郎先生ね。彼は1901年、ドイツに留学して、そこで抗体を発見した。ベーリングというドイツの医者と二人でね。ところが、二人で発見して、歴史を調べると、現代の世界の免疫学者はみんな北里が非常に素晴らしい貢献をしたかと、ベーリングに優るとも劣らない貢献をしたかということが記憶に残っているわけ。あれは間違いだということをみんなアクセプトしています。免疫学者の間でね。だけど、彼はもらわなかった。ベーリングだけがもらった。そういう例はある、確かに。それは1901年ですから、あのころは日本なんて存在しなかったからね、ヨーロッパにとっては。あれはもう地球の果だと。だけど、今はそんなことはぼくはないと思う。やっぱりそれだけの独創的な研究が少ないから。ノーベル賞をもらうかもらわないか紙一重のところがあって、それに値する研究というのはいっぱいあるわけ。それがある程度の数がなかったら当たる確率はやっぱり低いですよ。数が少なすぎる、あまりにも。ノーベル賞をもらうような研究というのは、新しい分野を切り拓くような、その人の発見によって、長いことダムで水がせき止められて何十年もせき止められていた難しい問題があって、研究者がどうしていいかわからなかった。世界中の研究者が一生懸命やってるんだけど、そこが突き破れなかったのに、ある人が研究したためにそこがばっと壊れて、ばんと水が流れてくる。すると、そこへ何百人何千人という研究者が集まってきて、それに関与する研究をやって成果を挙げるわけ。ところが、そういうとき必ず最初にダムを壊した人というのがいるわけ。そういう人がやっぱりノーベル賞をもらっているわけ。そのすぐあとの人は、これは非常に重要な実験をやっているわけ、仕事をやっているわけ。だけど、その最初の壊した人とはやっぱりレベルが違う。あれはもう独創性のレベルですよ。次だったら、例えばグループで、組織の力とかカネの力でかなえることができるわけ。そうなると、さっきも言ったように、やることがわかっているわけだから。ここをやればいいということがわかっている。そのレベルになれば、それはいわゆる優秀な人というのはできるわけ。だけど、最初の潰すところは、いわゆるただ優秀ではできない。破ってもらわないといけないし、変わったところもないといけないしね。それはもういわゆるオリジナリティ、独創性のレベルが違うんだ。
 そういう突き破るような研究をやっている人がMITの界隈にだって1ダース、2ダースとあるわけ。その中からまた限られた人がノーベル賞をもらっているわけだから。これはMITだけですからね。医学生理学分野というと、もらってもおかしくない人がアメリカ全体で言うなら何十とそういうのがあるわけ。その数がやっぱり日本は圧倒的に少ない。だから、やっぱり回ってこないんだと思います。
 それを増やすためにはノーベル委員会の理事長がいみじくもNHKの取材に答えて言ってるけど、やっぱりそういう日本の教育制度から研究体制に至るまで、どうやってユニークなことを考える人間を育てるかということにかかっていると。いわゆる技術の開発と基礎研究のレベルの独創的な研究というのはかなり違うんです。日本はだからみかけは工学部というのはものすごく強いわけ。工学部とか農学部。あれは基礎研究でやられた知識をどうやって人間に役立つことを考えるかということをやっているわけ。それのまた基礎研究をやっているわけです。基礎研究やってます、やってますなんて工学部の先生は言うんだけど、彼らのやってる基礎研究と我々の医学系の基礎研究というのは非常にレベルというか、独創性のレベルが違う。
 だから、日本はそうやって応用ということに非常に重点を置いて大学をつくったし、日本の工学部、農学部というのは非常に学生も多いし、講座も多い。MITは工学部強いですよ。マサチューセッツ・インスティテュート・テクノロジーですから。ハーバードなんか行ったら非常に少ない。そもそもオックスフォードとかケンブリッジは工学部なんてごく最近までなかった。つまり応用というのは最近になるまでほんとの学問とみなされてなかった。そういう歴史がある。日本は工学系は強いんです。応用することは非常に強いんだけど、その基になる根幹的な発見というのは少ない。だから、最近はそれで、みんなすぐパテントを取っちゃうでしょう。基礎研究のレベルでもパテント取っちゃうんです。昔はもっと応用の・・。エンジニアリングのほうはパテントいっぱいあるんだけど、今や非常に基礎的なレベルで、発見で知的所有権を認めるようになってきているわけ。そのために日本はそういう分野がやっぱり弱いから。


もうそこからの応用もできなくなる。

利根川進 教授

だから、応急措置をしないといけないけど、本質的には20年先、次の世代で巻き返すという(笑)、正攻法でやらなかったら、対症療法では大したことにはならないと思う。


日本人は応用分野では優れた成果を出してきたと言われましたが、人種的に基礎研究的なところは向いてないということもあるんでしょうか。

利根川進 教授

そんなことは関係ないと思う。そんなこと時どき言う人いるけど、そんなこと知ってる人がいるわけがない。


そうですよね。だって利根川先生が知らないっておっしゃるんですから(笑)。

利根川進 教授

いや、はっきり言って正しい答えはだれも知らないということです。よく、今スニップって知ってます。あれは人種というのがありますよね。人種によってあるスニップのパターンというのがあるわけ。日本人にはこういう形態が多い、白人にはこういう形態、黒人には・・。これがこのスニップの違いが何かこれは人間のある面での能力とか人格とか個性、そういうものへ影響を与えている可能性がありますよ。だけど、個々に与えてるからといって、東洋人がより不利だとかいうことはだれも証明してない。むしろ東洋人がより有利であるという証明がされるかもしれない。全然そんなことは今の科学のレベルで何もわかっていないというのが事実です。
恐らく知能というのはものすごく多様性がある。これも大した学問じゃないんだけど、ハーバードに有名なハワード・ガードナーという教育学者がいるんです。本も書いてますよね。そもそもぼくは教育学なんていうのは、ぼくらから見るとあれはハードな学問じゃない。彼の言ってることはシェイキーであるといつもぼくらは思っています。哲学者とか心理学者とか、社会学者とか教育学者なんて、まあこのへんだろうなと思って、自分で意見言ってるだけで、本当にそうかどうか問い詰めると非常にシェイキーになってくるんですよ、わからないから(笑)。
 ぼくはハワード・ガードナーよく知ってるけど、彼にだって、おまえどのくらいの自信を持ってこれ・・。おまえ、えらいポピュュラーな本を書いてるけど、これどのぐらい信じてるんだというと、非常に一生懸命になって反論はするけども、本質的には、いや、あなた方の言ってるレベルのリゴラスで、あなた方の言ってるレベルの確実さでものが言えることなんぞというのは、教育学にはほとんどないんだと彼は言いますよ、やっぱり。それは彼は正直でいいんです。だけど、実際に一般の社会では、彼らが言ってることも我々が言ってることと同じぐらいのウエイトを持って受け入れられてるわけ。それは彼らの言うことは実生活により密接なことを言うからね、教育の問題とか。そういうリザベーションはあるけども、彼を有名にした彼の説というものは、人間の能力というのは非常に多様であるということなんです。多様な能力を持っている。物覚えがいいというのも一つの知能、一つのエレメントにすぎないということを言っているわけ。
 もう一つのエレメントは、例えば非常に物事に対処して楽観的に考えられるか、あるいは非常に悲観的にものを考えるか、これは人間の全能力を見たときに非常に影響を与えると。これは一つの能力であると言ってるわけです。ほかにも幾つか言ってるわけです。あるいはどのくらいひとをたぶらかす能力があるかというのも重要な能力です。たぶらかすって悪い言い方だけど、ひとをパースウェイティブさせることができるか。これはリーダーとしては非常に重要な能力だ。その人についていくという気持ちをひとに与えることができる能力があるかどうか。これは単にもの憶えがいいとは限らない。田中角栄先生は物覚えがよかったかもしれないけど、やっぱりそういう能力を持っていた。ひとを引きつける能力。これは能力です。いろんなことがある。
 結局、日本の大学に限らずいわゆる学校が測っているのは、ほんの一部を測っているにすぎないということを彼は言っているわけです。だからこそぼくは筆記試験の点の割合をもっと低くして、面接をやって、常にリーダーシップを持っているような人が面接をして、どの程度こいつをいいなと思うかどうかというのは一つのメドで、いろんな別のクライテリアで評価すべきだと。
 ギャンブル性というのも重要で、悪く言うとレックレス(無謀)ということになっちゃうんだけど、そのへんの際どいところがあるんだけど、ある程度、計算されたギャンブル性というのも重要だしね。自分で行動に、自分が考えたいろいろなチョイスの中からどうやってチョイスを捨てられるかという能力も重要だしね。選んで、実際にそれに突き進むというかな。さっきの東大の学生みたいにいろんなことが心配ではやっぱりできないですよ。
 だから、そういう意味から考えると、必ずしも我々理系の頭がいい子というのも、そういう能力を持っているかというと、そんなこと全然ないですよね。いろんな心配症の人。
あんまり心配症の人はダメだしね。ちょいとアタマが抜けてて、こいつ大丈夫かな、こんなにレックレスなことをやってと思うような子のほうが、ひょっとしたら大きなことをやるかもしれないですね。いろんな能力というのがあるわけです。


そうした能力も測れるんでしょうか・・。

利根川進 教授

うん。それを測ることが必要。それを測るためには、そもそも学校の先生がもうちょっとこういうことを認識する先生が評価しないとダメですよね。だから、これは何回も蓮實さんと言うけど、彼も書いてるけど、やっぱり学校の先生を養成するのに、もっと国はカネを遣うべきだと。例えば、理科を教える先生というのは、やっぱりサイエンスのことをかなり知ってないとダメだ。ところが、だいたい日本の学校の先生になる人というのは、昔の教員をつくる学校というのがありますよね。学芸大学とか何とか大学ってありますよね。ああいうところに勤めてる教授そのものが優れたサイエンティストなんてあまりいないわけです。だから、理科のいい、本当にサイエンスがある程度わかっている先生というのはなかなか育たない。
 うちの子供は実はまだ小さくて、いちばん上はまだ13歳で、13、11、7歳かな。小学校と中学校なんです。ここのボストンの郊外にある非常に良いという評判の私立の学校へ行ってるんです。小学校、中学校、両方。そこで、ぼくはやっぱり自分で観察してて、科学の先生の教え方が素晴らしいので、ぼくでさえすごく感心した。見てると、やっぱりああいう私立の学校も、先生は引き抜かれてくるんですよ。校長先生か何か知らないけど、上の。やっぱり大学とおなじで、母体があって、そこでいろんなところを見てて、給料多くしたりして、評判のいい先生を引き抜いてくるの。うちの上の子が習った理科の先生って、子供もみんな大好きなのね。教え方がうまいというか、子供に興味を持たせる教え方をするというか、そういう先生でね。いわゆる教科書をやっていくというんじゃなくて、プロジェクトというんだけどね。1ヵ月ぐらい、6年生の子供にあることについていわゆる研究させるわけ。研究させてレポートを書かせる。しかももう一つ重要なことは、こういう学校は、非常に恵まれてて、一教室で12人しか子供がいない。しかも先生がもう1人、先生にまだなってない、教育実習生がアシスタントとして付いてるわけ。12人を2人で教えてる。だから、例えばある時の授業を見ると、脳に関係のある人間の感覚器、人間がどうやって外から情報を中へ取り入れるか、これは目とか鼻とか耳とかだけど、そういうものを使って情報を入れてる感覚器、それについての勉強をする1ヵ月なの。理科はね。 そのときに12人の教室で、一応先生がお話をして、1週間ぐらいやって、3回くらいやるのかな、講義をね。講義って言うか、いわゆる教えるわけです。教科書がだいたいアメリカのそういう学校は教科書ってないんですが、日本は検定教科書があるけど,こんな薄いでしょ。それで、重要な単語だけゴシックで書いてあるんだけど、それをパッパッ、パッパッと覚えていって、これは何を意味するかというのが試験に出てくるわけです。向こうは教科書ってない。その先生が勝手に自分で参考書っていうのを選んでくるの。その参考書が6年生で、この大判でこのぐらいの厚さなんだ。小学高学年用のサイエンスの参考書としてみんな勝手に出しているわけですよ。別に検定なんてないんです。みんな勝手に何冊もあるわけ。その中から、その先生が自分のいいと思うやつを選んできて、一応それを教科書代わりみたいに使っているわけです。それを必ずしも1ページから 200ページまで全部やるというんではなくて、そこだけ選んで、こことここが今日自分がしゃべるところの補助の教本になるからここを読んできなさいというようなことは言うんだね。
ところが、それとはまた別に、プロジェクトというのをやるわけ。それぞれの生徒に1ヵ月かけて参考書、何でもいいから読んだり、コンピュータつまりインターネットを使っていろんな情報を集める。あるいは親に聞いてもいいし、だれに聞いてもいいから、そうした中で自分なりにあるテーマを決める。うちの子供はカラービジョン、人間の目がどうやって色を識別するか、目です、目の効用―カラービジョン。そういうテーマ。このテーマを決めること自体がクラスのディスカッションです。二人の子が同じテーマにならないように調整もするわけ。ディスカッションさせて、テーマ、今日決まったよといって帰ってきた。「ぼくはカラービジョンを選んだよ」。これについて、いろんな参考書。まずいろんなプリントみたいなのがあって、週ごとに研究の調査のガイドラインがあるわけです。
最初、本やいろんなとこで読んだことを、インデックス・カードという、こういうカードってあるでしょう、アメリカにはね。あれに読んだことを、エッセンスをまとめて、インデックス・カードをつくるというのがある。


そうした全体の流れは、先生が指示を出してくれるわけですか。

利根川進 教授

そうそう。インディックス・カードを10日間で20枚提出しなさいというのがある、自分のテーマについて。まずそれをやる。それをやるためにいろんなもの読んだりインターネットで調べて読んで、それを読んでカラービジョンについての情報を集めて、自分で習ったことを--先生が教えるわけじゃない--まとめて、目にはこういう細胞があって、細胞にはこういう蛋白質があって、それが光を受けると光のエネルギーが電気的なエネルギーに変わるというようなことを読むわけね。それを書いてまとめたやつを10日ぐらいでまず20枚提出しなさいと言われるわけ。それをみんなが提出するわけね。それぞれの生徒が別のものを提出しているわけ。別のテーマだから。それを先生が見て、順調にやってるなと思えば、それでいいよと言うし、もうちょっとこういうことも調べておいたほうがいいんじゃないかとか助言をする。
その次に、いよいよレポートを書く。これ、小学校6年といっても、アメリカでは今みんなコンピュータでタイプして出す。タイプするどころか図なんかも入れるわけだ。ぼくらが書く論文とほとんど同じ形式なの。ビブリオグラフィーといって、どういう本のどういうチャプターの何年発行、どこから出たやつを読んだかというのも書くようになっているわけ。
まず最初にバックグラウンドを書きなさい。自分のテーマがなぜ重要か。それをまず1ページ書きなさいと言うのが次の週で、その次の週はメイン・ボディーというんだけど、要するに調べたことをまとめて、どうやって人間は色を識別するか、どういうメカニズムでやってるか書きなさい。これは生物も入っているし、物理も入ってるし、ケミストリーも入っている。みんな入っている。サイコロジーまで入っている。
 それをやっているのを見て、ぼくはこういうやり方というのは面白い教え方をするなと思ってね。たまたまぼくは、ぼくのやってる分野と関係あるんですよ。そういうニューロサイエンスをやってる。実際、大学院の学生に講義しているわけ。こんな分厚いニューロサイエンスの教科書を使っている。そこのチャプターにビジョン・システムの30ページぐらいのチャプターがある。最近のそういう本きれいですからね。カラーがあってね。そこを6年生の子とぼくは一緒に読んだ。大学で使ってる教科書を二人で一緒に読んだ。そこにきれいな図が出てね、ここはカーブだ、吸収スペクトラムだって出ててね。緑の場合、赤の場合、こういうのもぼくは一生懸命説明して、そこに書いてあるのの恐らく10%ぐらいはわかったと思う。実際その図を引用して、スペクトラムなんていう言葉を使って説明しているわけ。
 そういうことをやって、提出して、最後は発表会。子供と先生がいて12人、お互いに発表する。1人20分、2回に向けてやったかな。そのときのまた先生がガイドラインみたいな、発表するときのコツみたいなものを書いたプリントをぼくは見た。それを見てほんとぼくは笑っちゃったけどね。第一、発表はエンターティーニングじゃないとダメだって書いてあるの(笑)。


小学校6年生なのに。

利根川進 教授

で、二番目、インターラクティブじゃないとダメだ。三番目、できるだけ何かオーディオ・ビジュアルじゃないとと、つまりスライドとか・・。
 金持ちの学校で、プロジェクターからオーバー・ヘッドからみんな持ってるんですよ。部屋に用意してあるの。モデルをつくるというのも手だよ、だとかね。いろいろなことが書いてある。それを基にして、うちの子はカラーの認識に関するね、これはサイコロジー(心理学)で調べてることなんだけど、実験をやって、何色に見えるかというのを生徒にやって発表した。それで先生が評価して、子供たちも感想を述べる。そこがまたアメリカの学校というのは、小学校6年生でもソーシャル・インタラクションというのを教えるんです。我々と同じで、大人と同じで意見は言うべきであるけど、褒めるべきだと。そうすると子供たちがやっぱり褒めるんだって。批判と褒めるのとのバランスをとって。それを教える。だから、小学校6年生で論文の書き方を習う。どうやってインタラクトするか、人間関係ね。サイエンスの時間だけど、そういうことも教えているわけ。
 12人だからできるということもあるけどね、つまりそうとう有能な教育者なんです。やっぱり会って話をしていると、なかなか実が入っているというか、どうやって子供に教えるか、一生懸命考えるという、そういう気持ちが伝わってくる。
 もう一つ重要なことは、先生と父兄のインターラクションが非常に頻繁なんです。よくいろんな話し合いというのがあって、それから先生を除いて父兄だけで学校に集まるというのもある。それで、何かクラスに問題はないかとか、それこそいじめる子がいないかと、それを親同士で話し合って、こういう手を打ちましょうとか、そういうのをやるんですよ。だから、日本の学校の問題点は、いろいろあるけど、ぼくは親がもっと教育に参加しないといけないと。自主的にやる。いわゆる一種のボランティア活動だといいましょう。でも、自分の子供が行ってるわけだからね。それはやっぱりその学校は確かにいい学校です。公立の学校へ行くとそこまではやらないんだけど、でも公立の学校でも町によって違うの。
 だから、我々が最初に若い教授がMITに就職してくるでしょう。どの町へ住むかというのが重要なことなんです、子供がいるから。だいたいアシスタント・プロフェッサーぐらいだと私立の学校へ上げるほど経済的余裕もないから、だいたいみんな公立へ入れちゃうのね。そうすると、町によってその質がずいぶん違う。町で教育委員会があって、そこで小学校、中学校は運営していますからね。例えばここだったらぼくが住んでるニュートンという町とかね。隣のブロックハイム(?)という町は学校のレベルが非常にいいということになっている。ケンブリッジもいいのかな。ところが、場所によっては非常に良くないんです。
 だから、みんなそれを考えて学校を決めることはしますけど、ひとによっては私立の学校へ行かせるよりも公立の学校へ行かせたほうがいいっていう考えのぼくの同僚たちもいます。それは公立のほうが子供の家庭の環境が非常に多様がある。人種もいろいろあるし、あんまり裕福じゃない人もいるしね。だからそのほうがいいっていう。子供たちに早く現実の世界を知らせたほうがいい。やっぱりいい学校だと中産階級の上ぐらいの家庭が多いんです。それからもう一つは、家があちこち散らばっているわけ。


一緒に遊べない。

利根川進 教授

だから、隣の子と遊ぶというわけにいかない、学校が違うから。うちは私立に入れてるけど、わざわざそのために公立へ入れるというね、経済的な理由とは関係なくそういう同僚もいます。だから、日本の学校をよくするのは、一つは・・。いろんな問題がありますね。


教育というか、学校そのものが全部、がんじがらめに縛られてますね、日本は。その状況は私立も同じで、そこからそっくり変えないとどうにもならない。

利根川進 教授

どう見たって中央政府の管理がきつすぎると思う。


まず、現実として日本では先生が自分で教材を作れない。大概の先生に作る能力がないし、もし能力があったとしても、勝手に自分で教材を作って教えることは、文部省やら教育委員会やらからの有形無形の規制があってできないですから。

利根川進 教授

でも、ぼくが賛成することは、学校の先生に限らないと思います。実はお役所の、官僚もそうだと思うんだけど、もっとぼくは大学卒、大学を22歳で卒業して、すぐそうい職に就くのは無理だと思う。教育なんてものすごく難しいことだからね。子供を教育するなんて、あんな難しいことはないとつくづくぼくは親として思う。もっと自分で考えて、いろいろ勉強・・勉強って、職に就く前に時間があるべきだと思う。だから、教員になる人は大学院へ入るべきです。もう一つは、企業に一回勤めて、そういう人が教員になれるべきです、次のジョブとして。それ、いいことだと思うんです。実際の社会をよく知っててね。そういう人たちの中にひとにものを教えるというかな、アトラクティブな人がいて、そういう人たちは教員になれるべきだし、きっと優秀な人がその人のずっとやってきたことを中心にして教えることもできるだろうと思うしね。それは、だけど面白い話を聞いたんだけど、日本のエリート官僚は学歴が足りないって言うんですよ。これも蓮實さんの話だけど、蓮實さんがそう言うのよ。そうしたらインタビューした記者がびっくりして、「学長、それはどういう意味ですか」と。「例えば、大蔵省のエリート官僚はみんな東大法学部出身じゃないですか。立派な学歴があるじゃない。あれ以上いい学歴がありますか」と蓮實さんに言ったら、「学部の卒業なんていうのはあんなもの学歴じゃない」と、蓮實さんは言う。彼が言うには、例えばフランスとかアメリカでもエリート官僚に会って名刺を交換すると、たいがいみんなPhDとか書いてあるっていう。結局、いくら学校の成績がよかったかもしれんけど、22歳で卒業して、すぐ国の方針を決めるというか、国を運営するのに重要な役割を担いだすというのは、蓮實さんによると無茶だというんだよ。ぼくもそう思うよ。だってあれ見てると、みんな子供っぽいもん(笑)。だからもっと、例えばそのあと少なくとも4~5年、自分でものを考える期間があるべきだ。じっくり考えて、どういうことをやりたいのか、どういうふうにやりたいかと考える時間を与える必要がある。だからみんな大学院へ行くべきだと、彼はね。しかも法学部を卒業したら、例えば理学部の大学院へ行くとか、エリート官僚になる前にそういう違う分野のことをもっと習わせろと。もっと広い知識を獲得させろと。ぼくは全くそのとおりだと思いますね。あまりにもそこのところが手薄というかな。ブランドでやっちゃってるからね。法学部で優秀であれば、この人は将来の大蔵省次官であると決まっているという状態だから。それは無理ですよね。


最終的なビジョンというか、目標設定というものが国として曖昧だから、こういう社会を作るためには、じゃあこういう子供たちを育てようとか、こういう人材を養成しようというようなシステムが、まったくできてないわけですね。

利根川進 教授

だから、リーダーを育てるための組織がしっかりでてきないと。リーダーじゃない優秀な、変なアナロジーだけど、軍隊で言うと、将校を育てる制度がきちんとできてない。優秀な兵隊はいっぱい育ててるけど、リーダーを育てるためにはもっとしっかりした制度があって、うんと投資してやらないと、今の制度では無理だと思うんですが。


残念ながらもう時間になりました。長時間にわたって、どうもありがとうございました。