勉強会 vol. 3(平成8年10月7日)

講師

国際情勢コメンテーター ペマ・ギャルポ 先生

 第三回勉強会は衆院選公示の前夜にあたる10月7日夕刻 「アルカディア市ヶ谷」にて行われました。 時代の風が大きくうねり始めようとする緊張感が漂う中、 200名近いたいへん多くの方々にお集まり頂きました。

 今回の勉強会には、世界中を飛び回るようなスケジュールの合間を縫って、 国際情勢コメンテーターのペマ・ギャルポ先生が駆けつけて下さいました。 そして現在の国内外の情勢と絡めながら、 今回の衆議院選挙の行方そして各党の思惑などについて、 畑議員と共に本音で語り合ってくださいました。

信頼と期待にこたえて

 勉強会を始めるにあたり畑議員は「約二年半海外に暮らし、外から日本を見て “このままではこの国は立ち行かなくなる” という思いで国政に参加させて頂いてます」と述べ、 「ペマ先生はそういう思いを一番深くご理解して下さって、 また色々なところでご指導を受けています」と日頃からのご支援に感謝しました。 これに対しペマ先生は「私は今日、 あえて文句を申し上げるという役割を果たしたいと思います。 なぜなら日本の政界で“将来この人が有望だ”と言うとすぐマスコミがちやほやして、 最後にはただの笑いものになってしまうことが多いからです」と語り、 「しかし私は畑さんには歴史に残ることをやって欲しいと思います。 畑さんは知識も常識も持っています。しかし政治的経験だけはまだ足りません。 この六年間は色々なことを経験して、もっともっと勉強してください。」 と畑議員を力強く激励してくださいました。

トーク・セッション要旨

政治家の言葉とその責任

ペマ 先生

さて今回の選挙については、 どの党も政権を取ってから何をやるのかはっきり示していません。 また日本の政治不信を生んでいる原因の一つは言葉だと思います。 例えば政治家は「命を賭けて」とか言いますが、 命どころか自分の議席も賭けていません。 畑さんはかつてジャーナリストでしたし、エッセイを出すなどして、 武器としての言葉を使える人です。 だから少なくとも畑さんには、言葉に対して責任をもって頂きたいと思います。
 また政治家には自分は誰を代弁しているのか自覚して頂きたいと思います。 最近は「市民のため」と言っている人が多いのですが、国家を語るべき人が、 市民と言うのはいかがなものでしょうか。

畑 議員

我が意を得たりという気持ちでお話を伺っていたのですが、 まさに今「市民」という言葉の使われ方が、問われるべき時だと思います。 海外において「私は市民である」といった場合、 それは同時に重い責任を引き受けることを意味します。 コミュニティの中で平和で健全で安全な生活を営むためには、 その為のコストを自分自身で支払わなければならない。 しかし日本の「市民」はそういう意味では使われず、もっぱら保護され、 利益を受ける人として見なされている。 また国があってこその市民であり個人であるのに、 あたかも国家と対立した概念のように使われているのもおかしな現象です。

ペマ 先生

おっしゃる通りです。国家対市民と考えることはマスコミの報道に問題があります。 マスコミは本来、民衆に対して事実を伝えること、 啓蒙することといった役割があると思いますが、 今の日本では常にアジテーター的な役割だけしか果たしてないような気がします。 昔のマスコミは権力による様々な圧力に対して抵抗し戦いましたが、 戦後は逆にマスコミが権力を持つようになりました。それにも拘わらず、 彼らは自分達がペンによる権力者であるということを知らないように見えます。

畑 議員

「影響力は持ちたい。でも、責任は負いたくない。」ということで、 自らの権力を認識することを避けているのだと思います。政治の世界も、 問題の構造は同じです。
 私は国益のために政治を志しました。国益を守るということは市民、 そして私自身を守ることです。国益を守らず、 市民を守れるという論理は成り立たないと思います。 海外に一歩踏み出せば、 国家や民族という裏付けがなければ個人のアイデンティティさえも失われかねないとわかるのですが、 日本の中だけにいるとなかなかそれが意識に上りません。 日本が精神的鎖国から抜け出せない所以(ゆえん)です。

ペマ 先生

おっしゃる通りです。それに関連して、 私は日本で言われている「国際」という言葉の使い方も問題だと思います。 日本では「国際」というと国という有形無形の範囲を超えているように考えています。 しかし「国際」というのはあくまで国か民族が単位です。 国とか民族とか一定の地域で、 それぞれある価値観を持っている者同士が互いに接触することを国際化というのです。 例えば国連にしても各国がそれぞれの国益を保つために色々な駆け引きをやっています。 日本人の認識とは違いますが、 こういう認識のずれは先に申し上げたマスコミの責任と、 もう一つは他の国に比べ歴史観に問題があるからだと思います。

畑 議員

他の国に侵略されて言葉や名前あるいは(民族)衣装等を変えられたりすれば、 自国の文化や価値観が自国のアイデンティティそのものであることを知らされ、 それらを必死で守ろうと努めます。 なのに日本人はこれまでそうした経験をせず、平和にやって来られた、 希有なそして幸せな民族である為に自分自身の価値観とか座標軸を持たずに暮らしてきてしまったのです。 そしてそれが今大きなツケとなってはね返っており、 その国際化への大きなネックとなっています。

ペマ 先生

そうですね。精神的には壁があると思います。 現在個々の人間が持っている一番大きい単位は国家です。 そして国家あるいは民族というのはどちらが上でどちらが下ということはありません。 またその中にいる人間が皮膚の色、性別、 宗教の違いについて差別されてはならないということは、 国連憲章・世界人権宣言など全てに唱われていることです。しかし日本では、 例えばアパート一つ借りるにしても、 白人の留学生とアジア人の留学生とでは対応がはっきり違うのです。 そこに日本の国際化の曖昧さがあります。

畑 議員

そのような差別を「どう思いますか」と問えば、 みんな一様に「いけないことだ」と答えます。 ただ悪いとわかっていながらやってしまう、つまり言うこととやることが違うのです。 これは、日本人の甘えの構造に根ざすところかもしれませんが、 私自身政治家でありながら自己批判を含めて、 現在の日本、特に政治の世界においては、 言ってることとやってることが大きく違うことが多いと思います。

政治家の責任と選挙民の責任

ペマ 先生

一つは選挙民にも責任があります。 日頃から選挙民が政治家に対し「何をやっているか、何を言っているか」きちんと見ていることが大事です。 今日これだけの人がここに来て、畑さんを応援し励ましています。 皆さんは畑さんを批判する資格があり、批判する義務があります。 ところが日本の場合、何が正しいかということより誰が正しいかを大切にし、 さらに自分と関係がある者に対して採点が甘いと思います。 もっと厳しい目で「何が正しいか」を見なければなりません。
 ただ政治家に限らず、意見が変わるのは悪いことではありません。 民主主義の議会制度を持っている以上、議論は必要です。 そして議論すれば意見が変わることもあるでしょう。 しかし日本には議論の習慣がありません。

畑 議員

おっしゃる通りです。 国会は言論の府ですからセレモニー化した本会議も含め、 殊に委員会は論議を尽くすべきだと思います。 ですから私は常に100%のパワーを投じて質問に立ちます。 しかし、そうやって議論に挑んでも「元気な娘だ」とかえって珍しがられ、 大体の会の雰囲気は割り振られた時間を「とりあえずこなせばいいでしょう」といった感じです。 議論を戦わせて物事を決めていくという発想そのものが日本にはほとんどないように思われます。

ペマ 先生

今年は日本において住民投票と県民投票がありました。 ところが今回の住民投票や県民投票は、行政側が祭として、 最後の仕上げのプロセスとしてやっているにすぎません。そういう意味で日本では、 まだ議会制度そのものが十分に把握されていないのではないでしょうか。 それが日本的民主主義と言えばそれまでですし、 過去において機能したこともあるでしょう。 しかし改革においては、何を変え、何を変えないべきか、 その基準をどこに置くかが大切です。 日本の場合、ただ変えたい変えるべきとしか言わず、 基準をはっきりして議論するということをしていないように思われます。
 日本の政治はずっと不安定な様相を続けるわけにはいきません。 冷戦構造が崩壊して、 新しい世界秩序を構築する時に日本だけが国内のことばかりやっているというのはとても情けないことです。

畑 議員

議会制民主主義といった「基本的なシステムから、まず整えなければ」というのが、 私もこの一年でまさに痛感したことです。またそれぞれの議員の公約についても、 その達成度が次の選挙にあまり反映されないという問題があります。 自分の任期の間にどれだけのことをしたのか有権者の方に公開して、 それで選挙の際ご判断頂くというシステムを導入してはどうかと考えています。 何故それが必要かといいますと、 国政のために力を尽くした議員ほど地元の慶弔などに出られなくなりますので、 次の選挙が難しくなるからです。 私の同僚議員で先国会においてはエイズ問題に全力で取り組み、 全議員の中で最も質問回数が多かった若手議員が、 今回自分自身の選挙区では票が取れないと党から判断され、 比例ブロックに回ってしまいました。 もちろん比例になったからバッジを失うというわけではありませんが、 少なくとも国のために一所懸命仕事をしたことが選挙では報われないのです。 小選挙区になってこれまで以上にどぶ板選挙となり、 地元に張り付かなければならなくなりました。 このままでは日本はペマ先生のご指摘とは正反対の方向に進んでしまいます。 国家のあり方そのものを根幹からチェックし直して、また自らの政治的経験も積んで、 任期が終わる頃までにはそういうシステムを作れるようにがんばろうと思います。
 今日は本当にありがとうございました。