この国のグランドデザインを考える(平成9年5月23日)

 この国のグランドデザインをまず考え、 その実現のために力を尽くす-それが政治家の務めではないかと思うのだが、 やれ景気浮揚対策だ、危機的財政赤字からの脱却だ、 基地を抱えてもらわざるを得ない沖縄のあるべき姿は、 目前に迫った日米ガイドラインの見直しはと、 待った無しに突きつけられる喫緊の課題に四苦八苦している内に毎日が飛ぶように過ぎてゆく。 6月18日の会期末を前にした参議院は殊に大物法案のオンパレードで、 自分が直接委員として関与する逓信関係以外にも「健康保険法」の改正に「臓器移植」、 更にこの先「介護保険制度」に「男女雇用機会均等法」の改正まで衆議院から送られてくるのだから、 各党間の意見調整などという国会対策に思いを致さずとも、 自分自身が法案採決に臨むに当たって済ませておかねばならない基本的な勉強をどうクリヤしようかと考えるだけでいささか気が遠くなってくる。

 とは言え地元というものを持たず、 しかも6年間という在職期間が保証されている私のような議員は極めて稀で、 普通は余程の大御所にならない限り本来携わるべき政治よりも選挙の方により多くのエネルギーを費やさざるを得ない。 いつ解散となってもおかしくない衆議員、 中でも選挙区選出の議員達は日々種々雑多な地元からの陳情処理に追われ、 終末は冠婚葬祭でスケジュールは真っ黒、 まったくこれで天下国家を考えよと言う方が酷ではないかと同僚議員の日程表を横目で盗み見ては正直そう思う。

 しかし、それならば時間さえ潤沢にあれば国家のグランドデザインを描き、 明確なビジョンを打ち出せるかと言えばなかなかそうとも言いがたい。

 たとえば私自身は中長期的政策として、現在、 マルチメディアやネットワークを駆使した高度情報通信社会の推進・整備に最も力を注いでいて、 その延長線として情報リテラシーや情報倫理の確立などの教育問題、 あるいはインフラ整備という観点から公共投資のあり方、 危機管理システムのネットワーク構築や国防の情報化という点で安全保障問題などについても勉強を重ねている最中だが、 ではその土台にきっちりとした国家像が鮮明に描けているかというと実のところ自信が無い。 ともすれば、欧米に一日も早くキャッチアップし彼らを追い抜き、 はたまた急速に台頭するシンガポールやマレーシア、香港・韓国などの追撃を振り切って、 この分野で揺るぎ無い国際競争力を確立し世界をリードしたいといった、 いわゆる「追いつき、追い越せ」的な次元の低い話に陥って躍起になっている自分に気付き辟易する。 結局のところこれでは、終戦後わが国が世界一の経済大国にのし上がった代わりに、 日本人が人として、 と言うよりは生きとし生けるものとして大切にすべき有形無形の何かを数多く失い、 置き去りにして来てしまったその歴史を空しく繰り返すに過ぎなくなってしまう。

 インターネットに代表される情報通信の急速で革命的な高度化によって、 全世界的なボーダレス化、グローバル化が一気に進む中、 技術や法律あるいは評価などあらゆる分野で国際標準化、 国際基準作りが急ピッチで行われている。 国際標準を獲得する事が世界の覇権を握ることとイコールになる時代、 地球規模での画一化はもはや避けられない方向なのだろうが、 「21世紀末には、今6000種以上ある世界の言語の9割が消える」という予測が、 この4月にオーストラリアのピーター・ムルホイズラー教授によって出された。

そうした中、フランスではインターネットをめぐって、いま一つの裁判が行われている。 米ジョージア工科大学のフランス分校が、 学生を募集するのにすべて英語で書かれたホームページを開いていたことが、 広告など社会に公開する文書では外国語を使用することを規制しているフランスの法律に違反すると訴えられているのだ。 この裁判以外にも同種の問題,、 つまり英語によって世界につながるインターネットの世界が、 自国の言語を法的拘束まで与えて厳格に守り通しているフランス社会と様々な軋轢を起しているという話は、 昨年パリを訪れてマルチメディア関係の官民双方の担当者と会見した際、 幾度も聞かされた。言語は文化であり、文化は国家のアイデンティティである。 とすれば、英語に席捲されることは即ち米国に覇権を行使されることで、 それを脅威と感じるフランスはたとえ情報化で遅れを取ろうとも自国語にこだわる。

 一方、日本はどうだろう。インターネットはおろか、 パソコンのマウスに触れた事の無いような国会議員達が、 「マルチメディア社会に対応できる日本人を育てるため、 これからは日本語と同程度の時間数を英語教育に費やすべきだ」と檄を飛ばす。 しかしながら、確かに情報リテラシーについては小中学校のカリキュラムに早急かつ十分に取り入れるべきだとは思うが、 その一方でワープロ使用による漢字文化の急速な衰退にも思いを致し、 適切な処置を同時並行的に行ってゆくのもまた政治家としての役目ではないか。

 「追いつき、追い越せ」で闇雲に突っ走れば人心も掌握しやすく、 また政治家自身も実に痛快だ。 しかし望ましい国家像というゴール無しにただただアクセルを全開にして走る事の愚かさは、 もう嫌というほど我々は思い知らされたはずである。 せめて国会閉会中くらい定期的に、日本の有るべき姿について、 党派や世代の垣根を越えてオープンかつエンドレスに議員同士で討論できる機会が持てたらと痛感する今日この頃である。