私流・護憲的改憲論 (平成12年4月17日)

三十代・女性国会議員として

 ミレニアムにふさわしく、今第147通常国会から衆参両院に「憲法調査会」が設置され、 国民の代表による論憲がやっとスタートすることとなった。

 メンバーは、衆議院50名・参議院45名。その内30歳代の議員はわずか3名という中、 私も委員を拝命した。 しかもわが自民党で女性の委員は、衆院の森山真弓議員、田中真紀子議員と私のみ。 若い世代と女性という、大きく二つの視点を機軸として虚心坦懐に論戦に臨むつもりだが、 21世紀におけるわが国の羅針盤作りの一端を担わせて頂くかと思うと、 今更ながら身の引き締まる思いがする。

「拡大解釈」が助長する形骸化

 制定から50有余年-現憲法と現実社会の乖離は、最も注目される第9条に限らず、 例えば環境権、私学助成、急速な情報化の中での著作権やプライバシー、 知る権利などをめぐり、枚挙に暇が無い。 これだけ多岐にわたりかつ深刻なギャップを抱えながらも、 日本国憲法はこれまで”拡大解釈”というただ一つの手段でその場を凌ぎ、 本質的な解決を先送りにしてきた。

 憲法で明らかに禁じられていることが、見て見ぬ振りをすることにより、 認められ実践されている社会。

 憲法に当然明記されておくべき権利・義務関係や社会の基本原則が記されていない憲法。

 そのような明白な歪みや無理を、社会や憲法、 つまりは国民に強いてまで憲法の条文に手を触れぬことが、 果たして真の意味で「護憲」と言えるのか。 むしろ拡大解釈を重ね、社会と憲法の間に乖離を広げてしまうことこそが、 尊重されるべき憲法を何より形骸化させ、 その効力や権威を失墜させてしまうのではないだろうか。

世界に例を見ない超・硬性憲法

 世界の他の国々と比較しても、 やはり日本の憲法に対するアンタッチャブルぶりは突出している。 ちなみに日本憲法とほぼ同時期かそれ以前に制定された憲法は、 過去いずれも改正されているので、その点でわが国は、 世界で最も古い憲法を後生大事に堅持している国ということになる。

 民主主義を標榜する先進各国は、憲法と現実との乖離を常にチェックする体制を整え、 もし乖離が生じたら憲法を改正するか、現実を方向修正するか、 いずれかの措置を執ってきている。 結果として、米国では27か条が追補され、ドイツでは46回、フランスでは11回、 更にスイスでは130余回もの憲法改正が行われてきている。

 更に他国と比べて驚かされるのは、改正手続き規定の余りの厳しさである。 いくら硬性憲法とはいえ、各議院における総議員の3分の2以上の賛成に加えて、 国民投票における過半数の賛成まで改正に必要としている国は、 私が調べたところ主要国には見当たらない。 しかも、第96条に書かれている各議院における「総議員」の解釈や国民投票時の 「過半数」の解釈については、投票した議員と投票数の過半数とする説と、 在職議員全員と有権者の過半数とする説との両方の学説が存在しており、 後者の解釈に従った場合、日本国憲法を改正することは事実上不可能に近くなり、 そのような憲法を軍事占領下で日本が受け入れざるをえなかったこと自体、 ハーグ条約違反ではないかという気さえしてくる。

 いずれにしても、改正に関する条文が憲法第96条に掲げられている以上、 今すぐ憲法を改正しなくとも、意見が分かれている「総議員」や国民投票における 「過半数」の解釈も含め、統一的で具体的な改正手続きを示した 「憲法改正手続法」を、わが国としては一日も早く整備すべきだろう。

憲法は変化に対応してこそ

 日本国憲法によれば、 憲法改正案を国民に提示できる権利を与えられている唯一の存在は、 国会議員のみである。これは同時に、 憲法と現実の乖離をチェックしそのギャップを埋めるべき義務を、 我々国会議員が担わされているということに他ならない。

 そうした使命を担う一人として、アメリカ独立宣言の起草者で、 米合衆国第三代大統領トーマス・ジェファーソンの次の言葉に、 いま謙虚に耳を傾けたい。

 「人間の作品で、完全なものは存在しない。 時代の流れの中で、成典化憲法の不完全さがあらわになるのは避けられない。 さらに時代の経過は、憲法が適応しなければならない社会に変化をもたらすだろう。 それゆえ、憲法を改正するという現実的な方法を定めておくことは、 絶対に必要なのである」(訳文引用-『日本国憲法を考える』西修氏著)