「作新」44号 ニュースの現場から-真実を伝える難しさ

 インターネットや衛星放送など様々な技術の進歩により、大量の情報がグローバルかつリアルタイムに飛び交う今日、怒涛のように押し寄せる情報をいかに正確に読み取り、的確に取捨選択して行くかは、現代社会を生き抜く上での最重要課題と言える。しかし全般的な傾向として、新聞や雑誌、テレビやラジオといった各メディアから流される情報と「真実」との乖離は拡大する一方で、大衆に媚びる売り上げ至上主義の蔓延と、マスコミ人のモラルの崩壊、そして単に不勉強がなせる業(わざ)なのかキャスターやコメンテーターと称する人々の不正確で無責任なコメントには目を覆うばかりである。

 なぜこうした状況が、マスコミには生まれてしまうのか。どうしたらそんなマスコミからの情報をうまく読み替え、捻じ曲げられる以前の真実を知ることができるのか。取材する側として経験したニュースキャスターとしての8年間と、取材される側として経験した国会議員としての6年間を振り返りながら、報道とは何かについて考えてゆきたい。

 マスコミとはそもそもどのような営みであり、どのような工程で成り立っているのかについて述べる前に、まず私自身のマスコミでの日々をごく簡単に振り返りたい。

 大学を卒業した1984年(昭和59年)4月、私はNHK(日本放送協会)のアナウンス室に配属となった。当時は、テレビ・キャスターやリポーターのブーム真っ盛りで、放送キー局の入社試験にはどこでも1000名をこえるアナウンサー志望の女子大生が詰めかけていた。そんな中、この年たった一人の女子アナウンサーとしてNHKに採用された私は、正直とまどっていた。なぜなら、文化芸術関係のドキュメンタリー制作を漠然と夢見ていた私の第一志望は番組を作るディレクターで、自分自身が画面に姿を晒すアナウンサーになるなど、想像したことすらなかったからだ。

 ただこの時代、アナウンサーは原稿を正確に読むことを第一義とする単なるトーキングマシンではなく、自ら企画・取材し自分の言葉や息遣いで伝えることのできる真のジャーナリストであることを強く要求され始めていた。現にアナウンサーとして採用され、アナウンス室に所属していながらそこには一度も姿を見せることなく、報道局に詰めきりのまま記者たちとまったく同様の仕事をしている先輩もいて、アナウンサー、記者、ディレクターたちが相互に職種の枠を超えて活躍することが望まれていた。どの職種でも、番組を企画し、取材し、何かを「伝える」ことができるのなら構わないではないかという思いで、私は社会人としての第一歩を踏み出した。

 強く希望して就いた職種ではなかったものの、私のアナウンサーとしてのキャリアは実に恵まれたものだった。東京・渋谷のNHK放送センターに配属されてわずか一ヶ月で、3分間ながら毎日全国に向け放送されるゴールデンタイムの番組宣伝を担当。また半年で、朝の情報番組のキャスターを大先輩のアナウンサーとペアで担当。さらに1年半後には、当時NHKの番組では最もステイタスの高かった「夜七時のニュース」を歴代最年少で担当と、今にして思えば本当にもったいない番組を数多く経験させて頂いた。

 ただもともと見ず知らずの人の前に出ることに、大きなストレスこそあれ喜びの無かった自分にとって、この一見華やかそうなNHKでの日々には、言葉には言い尽くせない様々な苦悩や苦闘があった。画面の中の畑恵が一人歩きし、本当の自分自身との乖離が進めば進むほど、耐え難い自己喪失感に苛まれた。

 「自分が進むべき道は果たして本当にこれで良いのか」、「周囲に流されて、私は本当の自分を見失っていないか」、迷いに迷った末、平成元年の夏、NHKを退局。文筆業などもしながら民放でキャスターを3年間つとめた後、私は本当の自分を再確認するため、世の中が先入観とともに視線を投げかけない環境を求めて、フランス・パリに渡ることとなった。

 NHKに在籍した5年半では一貫して、「自分は何を伝えるために放送に携わっているのか」、「放送(報道)の意義や使命とは何なのか」を、いかなる時も自分に問いただし徹底的に突き詰めるよう教えられた。確かに、NHKといえども視聴率をまったく気にしないわけではない。また従う従わないはともかくとして、有形無形の様々な圧力が始終、四方八方からふりかかってくる。ただ少なくとも、高視聴率の獲得だけを目的に番組を制作する必要は無かったし、視聴率によって番組にかけられる予算や人員が決まるということもなかった。どうしたらより多くの人がチャンネルを合わせてくれるか、新聞や雑誌を買ってくれるかではなく、「何をどう伝えたら本当に視聴者や世の中のためになるのか」、そのことだけをいつも考えて仕事ができたNHKの日々は、私にとって一生の財産となった。

 ただだからといって、NHKで報道されることが100%真実で、バイヤスなどまったくかかっていないかと言えばそうとは言えない。確かに、報道の使命は、「真実」を伝えること、この一言に尽きる。しかしどんなに努力をしても、様々な制約からマスコミには100%の真実は決して伝えられないということもまた、事実なのである。その理由として、主に次の4つのパターンが考えられる。

  1. 限られた取材条件(時間・費用・人員・プライバシー保護など)
  2. 限られた文字数や放送時間
  3. 部数や視聴率(=営業成績)との兼ね合い
  4. 報道規制(公権力・大企業・大衆の世論などからの圧力)

 理由はどうあれこうした制限や圧力をどう克服して真実に肉薄し、それを視聴者(あるいは読者)に伝えるか、それが報道人としての一番の苦労であり、勝負どころでもある。

 しかし中には、苦労なんてできるだけせず、できるだけ楽に記事や放送が出せればそれに越したことはないと考える者もいないわけではない(ただこのような怠惰な人物は、3Kといわれる過酷で薄給なマスコミにはもともとあまり存在しないはずなのだが)。さらに悪質なのは、事実や真実なんて最初から伝える気など毛頭無くて、ただただ「売れる記事」や「視聴率を稼げる放送」だけのために、週刊誌やワイドショーといった媒体に巣食う輩である。彼らの最終目的は要するに“金(カネ)”なのだろうが、それでは自分があまりに惨めと見えて、事あるごとに「自分は世の中の多くの読者あるいは視聴者の声やニーズを代表してこの仕事をしているんだ」と自身を正当化しつつ、センセーショナリズムを煽るためだけのでっち上げ記事や、人権侵害およびプライバシー侵害以外の何物でもない放送を流し続けている。こうした一部の不届き者がいるお蔭で、日夜、地道な努力と苦労を重ねている真のマスコミ人、真のジャーナリストたちの取材への規制が強まってしまうのは、実に嘆かわしい状況である。

 ところで一言に「報道」と言っても、実際どのような作業がどのような工程で行われているのか。一連の流れを簡略に示すと次のようになる。

    企画 → 取材 → 編集 → 放送(新聞なら印刷、雑誌なら出版)

 すべてのスタートは「企画」、つまり何をどういう切り口で伝えるのか、その絞りこみから始まる。担当する一本のニュース、あるいは一本の番組で「自分は一体何を伝えたいのか」という掘り下げが甘く、自分なりの視点が明確になっていないと、後に続く作業で必ず右往左往し、結果として焦点のぼやけた内容となってしまう。

 企画がたったら、それにもとづいていよいよ取材開始。ここではとにかく“足”が勝負。歩いて歩いて、ありとあらゆるところに出向き、話を聞き出し、現場を確認し、資料をひっくり返して、情報を集めまくる。最近は大新聞社の記者であっても、いわゆる「記者クラブ」という取材される側が用意した広報用の部屋に腰をすえてしまって、相手側の大本営発表をそのまま鵜呑みにして記事にするような者もいると聞くが、愚の骨頂である。様々な角度から取材を重ねに重ね、やっとそれぞれの角度が像を結び、真実が浮かび上がってくる。取材を重ねずして、決して真実は知りえない。

 俗に「夜討ち、朝駆け」という言葉がある。取材相手が公表したくない情報を入手したい場合、相手の帰宅時間を狙って深夜まで自宅の前でじっと待ち話を聞くか、さもなくば早朝、自宅を出る瞬間を捉えて話を聞くという取材方法だ。取材される側からすれば誠に迷惑千万なのだが、例えば警察や政府関係のトップや大臣急の政治家など、公の高い地位に就いている人物がその人しか知り得ない公的情報を握っているときは、やはりこうした方法をとらざるを得ない。記者はその間ずっと近くに止めた車の中で長い時を過ごす。ただそれも不躾に礼儀もわきまえずそんなことをすれば、当然相手は気を悪くし、話してくれる話も話してもらえずかえって逆効果となる。「夜討ち朝駆け」の意味は、あくまでこちらの誠意を相手に理解してもらうことで、例えば、「こんな寒い夜(あるいは朝)に、何日も何日も粘りに粘ってこの記者もご苦労なことだ。なかなか根性があるし、きっと本気で仕事に取り組んでいるのだろう」と相手がその熱心さにほだされて、始めて取材が可能になる。

 ところが週刊誌などには「夜討ち朝駆け」を単なる嫌がらせのストーカー行為と履き違えている輩がほとんどで、相手のプライバシーを侵害したり、相手やその家族の気持ちを傷つけたり、近隣に迷惑をかけてでも、自分たちに都合のよい情報を無理やり聞き出すことが任務だと勘違いをしている者があまりにも多い。しかもこういう無茶な取材をおこなう者に限って、事実とはかけ離れたでっち上げの記事を平気で書く。媒体の出版社や新聞社(タブロイド版やスポーツ紙)も、どんなことをしても面白おかしい文章を書かないのなら記事は採用しない(つまり金を払わない)と記者やライターにプレッシャーをかける。もはやマスコミ失格どころか、人間失格の有象無象が、マスコミという世界には残念ながら一定数存在している。

 取材が終わると、次は「編集」である。放送なら撮ってきたVTRや録音を放送時間に合わせてつなぎあわせ、必要なコメントや音楽をのせる。活字媒体なら、紙面の文字数に合わせて、原稿をおこし、必要な写真や見出しを決める。一見地味にみえる編集という作業だが、実はここが報道における一番の山場とも言える。

 もし放送時間や文字数に際限が無かったら、もちろん編集なんて作業は必要が無い。取材してきた情報をありったけ並べればそれが一番事実に近いからだ。しかし大抵の場合、与えられる放送時間は取材したVTRに比べ、何十分の一、いや、NHKスペシャルのような大番組なら何百分の一である。取材をしてきた膨大な情報量の中から、何を捨て何を残し、それらをどういう順番でつないで行けば、自分自身が肉迫し感じ取った真実を視聴者にそのまま伝えられるか。放送局に戻った取材者は、連日連夜腐心する。

 「取材」という作業が対象物や対象者との言わば「外なる戦い」だとすれば、「編集」作業はまさしく「内なる戦い」、「自己との戦い」である。ジャーナリストにとって最も苦しく、そして同時に最も遣り甲斐のある瞬間である「編集」に対して、いかに労を惜しまず、自分をごまかさず、圧力に屈せず、真摯に取り組んだかですべてが決まる。

 私は常々、報道とは「盆栽作り」のようなものではないかと考えている。机に乗るような小さな植物に対し丹精に丹精を重ねることによって、堂々とした大樹にも劣らぬ生命力を与えたり、あるいは壮大な大自然の息吹まで表現しうる盆栽の世界。それは、膨大な情報量を送らなければ本来伝えられない事実を、限られた時間やスペースにぐっと濃縮しながら、なおその本質を変えることなく視聴者や読者に真実を伝える報道という営み、中でも編集という作業と、酷似してはいないだろうか。

 例えば、目の前に樹齢何百年という立派な松木があったとする。良く見るとこの松、ある一本の枝の先端が、赤くなっていたとしよう。本来、緑色である松に赤い部分があることは、小さいながらも確かにニュースである。そこで、カメラの焦点を赤い部分に合わせて、そこだけをぐっとアップで撮影し、その映像だけを流して「赤い松が発見されました」と放送したとしよう。この放送を見た視聴者はおそらく、この松の枝はすべてこんなに赤いのだと受け取ってしまう。

 どうしたらこのような誤解が生じずに済むのだろう。事実は、青々とした松の大木のごく一部が赤いわけだから、まず松の木の全体像を視聴者に見せて、その後そこから一本の枝の赤い先端へとずっとズームインして行くべきだ。

 しかし映像としてインパクトがあるのは、やはり「赤い松」である。限られた放送時間の中、限られた画面のスペースの中で、できるだけ長くできるだけ大きく「赤い松」を視聴者に見せたい、そしてスクープとして注目されたい、視聴率を稼ぎたいという伝え手の邪心が、事実の正しい伝達を阻害する。

 取材した膨大な情報量の中から、どこを切ってどこを残すか、その判断を誤れば事実は大きく歪曲され、捏造・でっち上げも同然になってしまう。報道とは常にそうした危険性と隣り合わせなのだ。

 しかし最近のセンセーショナリズムに走る一部マスコミは、取材してきた映像やコメントを自分たちの都合に応じて、むしろ意図的に視聴者が誤解するよう編集し、より話題をスキャンダラスに煽り立てる。しかもその映像に自分たちで勝手なナレーションをつけたり、写真だったら事実とまったく違うキャプション(説明文)をつけて、視聴者や読者に事実とは似ても似つかぬ状況がさも存在しているように信じ込ませる。視聴者や読者が飛びつきさえすれば、とにかく売れさえすれば、事実の伝達なんて問題外というモラル・ハザードが、年を追うごとに日本のマスコミに蔓延し、その傾向は確実にこの国の社会全般の安定や発展を蝕んでいる。

 マスコミが大衆に迎合し、大衆の欲望と感情を満足させるためだけに報道を行うのだとすれば、その時点でマスコミはもはや単なる「凶器」でしかない。

 また日本人一人一人が、事実の正確な伝達よりも、センセーショナリズムをマスコミに求め、事実の複雑な構造を理解しようとする胆力を放棄して、単純化された善悪論に集団催眠的に踊らされ判断や行動を行うのならば、この国の将来はきわめて危うい。

 民がマスコミを育て、マスコミがまた民を育てる。享楽や刺激ではなく、事実・真実こそを「報道」に求める国民の凛とした姿勢が示されれば、必ずやこの国の未来はあると信じたい。