「試練」という名の贈り物

 人生という旅の途中で何度か出くわす「試練」という高い壁。

 その「試練」と対峙した時、そこで降りかかるあらゆる苦悩や辛さの中に、何か意味を見出そうとすること、天がなぜ私にだけこのような試練を与えた給うたのか、その意味を読み取ろうとすることから、本当の人生は始まる。

 人には必ず天から託された、その人なりの「使命」が備わっているのだ。その使命を果たすために必要な力を養うために、天は時折、試練というトレーニングの機会を各人に与える。託された「使命」が大仕事であればあるほど、その人に与えられる試練もまたより厳しいものとなる。そう、ともすると、天が私を嫌ってこんなにも不幸な運命を与えているのではないかと、いじけて誤解してしまうほどに。

 でも、決してそうではないのだ。むしろ逆で、天はその人が大きな使命を果たしてくれると期待しているからこそ、その使命達成に向け必要な力がつくよう鍛え上げるため、敢えて過酷な運命を体験させるのだ。「試練」は何よりの自分磨きの道具であり、また同時にそれは天から与えられた課題というか、挑戦状でもある。

 挑戦から逃げてしまうという選択もあるが、それはせっかくの自分磨きのチャンスをパスしてしまう事に他ならない。また逃げてしまったという自責の念は必ず心のどこかに傷を残し、前向きに踏み出して挑戦し続ける意欲や勇気を、その後の人生の中で減退させてしまう

 一方、試練をくぐり抜け乗り切ったその先には、必ず以前よりは少しばかり成長した自分がいて、外から見たら何も変わらぬはずの自分の人生がそれまでの何倍と楽しめるようになり、その結果すべてのことに感謝しながら生きる余裕が生まれてくる。そしてその楽しさや余裕がなぜ生まれたかを考えるにつけ、自分を取り巻く社会や人々への感謝の気持ちを何か形にしたい、何か自分をこのように幸せにしてくれた諸々の事柄の為にお返しをしたいという気持ちに、ごく自然になってくる。

 それから、自分が何か自然の大いなる力によって、この世に生かされていることを本能として感じ取ると、とにかく随分と人生が楽になる。なぜかといえば、人というのは大抵の場合、本当は自分が背負い込まなくてもいいような、運命に対する責任のようなものを、いつも肩に重く感じながら生きてしまっている。「そんなこと一介の人間の分際で、とても責任負いきれませんよ」というようなことまで、何とかしなきゃと頑張ってしまう。いくら自分の人生だって、運命を決めるのは神様なんだから、責任なんて取らなくていいし、取れる訳もない。人間の私たちに出来ることは、文句を言わず、ひたすら一途に、一生懸命にその運命を行き抜くということ、ただそれだけだ。

 その結果がどうであっても、「そんなこと私が知るか」といったところだ。力の限り、正直に真面目に頑張りました、というそれだけが、人間である私に出来るとりあえずすべての事。そして、後の結果は天が決めてくれる事。そう思えば、本当に生きることはとっても楽になる。

 「試練」は、自分の隠された力を引き出してもくれるし、同時に力の限界も教えてくれる。そして本当に自分にとって力の限界が来た時、必ず天は答えを出してくれるものだ。そのことを私はこれまでの人生で何度と無く経験した。詰まるところ、天からの答えが出ないうちは、もっと頑張れということなのだ。倒れても、ぼろぼろに傷ついても、とにかく答えが出るまでは頑張りつづけなくては、絶対に答えは出ない。

 誰でも頑張りつづければ、いつか必ず天からの答えは来るのだ。もちろんその答えは、当初自分が望んでいたものとはいささか違う形をしているかもしれない。けれど納得の行く答えは、まっすぐに挑戦しつづければ必ずやってくるものだ。

 ところが大概多くの人たちは、そこそこのところで努力の歩みを止めてしまう。自分は運が無いからとか、十分な能力が無いからとか、何やらもっともらしい言い訳をつけて、挑戦を途中でやめてしまう。

 でも、それは人生にとってひどく勿体無いことだ。

 自分がこれだと信じたことならば、答えが天から来たと思えるまで、頑張りつづけること、挑戦しつづけること。運が無いとか、能力が無いなんてことは、大体自分で決める事じゃあない。力の限界まで到達する前に、自分で自分に駄目出しをすることほど、愚かで勿体無いことはない。

 「試練」によって気づかされ、初めて見えてくる世界というものもある。たとえば何気なく平穏に、周囲の人達の愛や信頼に包まれて暮らしていること。そんなことなんて、普通に日々を過ごしているとなかなか感謝する気にならない。けれど、一度それが崩れてしまう事を経験すると、実はそうした何気ない(何事も無い)日々や時の流れが、とてつもなく贅沢で恵まれたものであることを知らされる。戦争や身内の不慮の事故あるいは病気などなど、天災や人災という「試練」がわが身に降りかかって、はじめてわかる有り難さ、価値の重さというものがある。

 そして、こうしたごく普通の日々の営みにも、やはり人智を超えた大きな力が全体を広く見渡して、絶妙のバランスで森羅万象を包み込んでいることを意識するようになる。