報知新聞「ヒューマンX」原稿

 幼い頃、住んでいたマンションの最上階の塀を、平均台代わりに手放しで歩いて、親の肝を冷やさせたことがある。

 実を言うと、ビルの屋上の柵から身を乗り出して頭を下にし、どこまで高く足を上げられるか試したことも、幾度もある。

 何故そんな危ないことをするのか-小学生くらいの私は自分でも理解できぬままに、そんな無茶を繰り返していた。

 ただおぼろげながら本能で感じていた、という記憶がある。死に直面して初めて、人は「生きている」という実感を得ることを…

 大学に入って、アンドレ・マルローの作品にのめり込んだ。「征服者」「人間の条件」など彼の作品に共通する、“社会というこの不条理きわまりない存在に対し、限りなく挑戦し、行動し続けることによってのみ、人は確かに生きていることを実感できる”という行動主義は、それからの私の人生における文字通り原点となった。

 不可能への限りない挑戦-そのはじめの一歩が、就職試験だった。いわゆる滑り止めの企業も受験しないまま、第一志望のテレビ局ばかり数社を受験した。当時、大卒女子の合格倍率は、どこも1000倍近く。かといって、何か勝算が有る訳ではない。有るのはただ、打ちてし止まんの覚悟と勢いのみ。スネをかじれるほど裕福な親もいなければ、ましてやこんな跳ね返りを嫁にもらってくれそうな恋人もいなかった。その背水の陣が迫力となったのか、結果としてその年ただ一人の女子アナウンサーとして、NHKに採用されることとなった。

 5年と4ヶ月ほどで、第二の挑戦の時がやってきた。NHKを離れフリーランスとなった私は、まったく見ず知らずの人たちから、どうして辞めるのかと批判され、どうせ失敗するに違いないと怨嗟の言葉を投げつけられた。ああ、この世はなんて不条理なものかと深いため息をつきながらも、「だからこそ私は絶対にこの不条理には屈しない」という思いに支えられ、その後の3年間をがむしゃらに駆け抜けた。

 3番目の挑戦は、日本脱出だった。その頃何につけ自己実現できない理由を、封建的で日和見的な日本社会のせいにばかりしている自分自身が嫌で、すべての仕事にピリオドを打ち、何の身よりも無いままパリで学生生活を始めた。

 第4の挑戦は、平成7年の参議院選挙。事前の約束とは大きくかけ離れた比例順位で、100%落選と言われての立候補だった。

 そして第5の挑戦は、結婚。世の不条理をこれほど痛感させられたこともなかったが、その苦悩に屈せず、自分が真実と信ずる「思い」を貫き通すことの意義を、これほどに教えられたことは無かった。

 他人様から見たら、なんて人騒がせでしんどい人生と思われるかもしれないが、この挑戦、たぶん死ぬまで続く。