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「パリが教えてくれたこと−「捨てる」という勇気」



 近頃のベストセラーの中に、その名も『捨てる!』という本が名を連ねているそうです。

 もう既に80万部を越えて読まれているということですが、いかに身の回りのものを効率良く捨てるかという、そのノウハウだけでこれだけの数の読者を獲得できるということは、それだけ多くの日本人が日々要らないものを抱え込み、捨てられずに困っていることの証左でしょう。

 確かに「捨てる」ためには、それなりの知恵と若干の勇気が要ります。

 何故なら本来、何かを捨てられるということは、自分にとってそのものが必要ではないということがわかっているということであり、そのことは裏返せば、自分自身にとって本当に大切なものが何であるかを、しっかり自覚しているということになるからです。このことがつまり、それなりの「知恵」です。

 しかしながら現実には、本当に自分にとって必要なものが何であるかなんて、はっきりとわかっている人などそう多くはないのであって、余程不必要と思わない限りは、とりあえず取っておくのが人情というものでしょう。その人情に打ち勝つためには、「勇気」が必要。そんな時、ベストセラー『捨てる!』が伝授する「捨てるためのノウハウ」に従いさえすれば、たとえ本当にそのものが必要であるか否かを自分で判断しなくても、ものを捨てることができます。いささか乱暴な言い方をすれば、目をつぶってエイヤッとばかりごみ箱に放り込む勇気を与えてくれるところが、この本の魅力なのではないでしょうか。


 実際、物事のシロクロをつけたがらない価値観から鑑みて、日本人は一般的に捨てることをあまり好まないような気がします。

 たとえば国会議員として政府の予算配分などに携わり、なんともメリハリの無いバラ撒き的な配分をなんとか与党内部から変革できないかと孤軍奮闘するたび、結局はしがらみに縛られて何も「捨てられない」日本人の悲哀を日々痛感させられています。昨今は民間と同様、政府としても厳しい国際競争に打ち勝つためには予算配分のあり方も「選択と集中」だと掛け声だけは威勢が良いのですが、ただでも財政悪化著しい中での限られた予算なのですから、伸ばすべきところを伸ばすためには、捨てるべきところは思い切って「捨てる」知恵と勇気を持たなくてはならないのは必然!ですが、これができない。各省庁の官僚やそれにぶら下がる族議員の皆さんも、総論は賛成であっても、いざ自分のところが削減の対象になるとなれば、いかなる手段を講じても一斉に反対に回ります。

 ですから国として何を「捨てる」かを決定するためには、まずは明確な基準をオープンな手続きで作り、次にはその基準にもとづいて判断する能力を持った人々、つまり評価メンバーを様々に異なった立場や分野から選び出し(このとき、評価メンバーを各省庁から推薦を受けた人たちの集まりにしては絶対にいけない!)、そしてその人たちに徹底して評価してもらった経過と結果は必ず公表して、広く国民からも評価を受けるというシステムを取らない限り、捨てるべきものを捨てることなどできないのです。

 ただこうした客観的な評価方法によって「捨てられる」対象になるだろう予算に携わっている人々ほど、旧来型の日本システムの中で守り守られてきた人たちですから、いわゆる“権力”を持っています。また「捨てられる」べき対象になっている有権者も必死になって、票やカネをそうした政治家に運んでどうか捨てられませんようにと頼みますから、結局、どうすればもっと効率的で風通しの良い社会になるかなんてとっくの昔にわかっていても、なかなか世の中は一朝一夕には変わらないわけです。


 ただまあ、このような話をしていると駆け出し議員の愚痴で終わってしまいますので、今日はもう少し肩に力の入らない話をしたいと思います

 なんの知恵も無くポンポンとものを捨てるのもどうかとは思いますが、それでもとにかく、なんでもかんでも取っておくよりは、まず「捨てる」ことを基本として生きた方が、人生にとって本当に大切なものが何であるかを知るためには有効であることを、私はある異国の街に暮らして徹底的に教えられました。


 1995年7月、参議院議員に当選する半年ほど前まで、私はフランスのパリに在住していました。
暮らし始めたのは、‘92年秋。EC・ヨーロッパ共同体(現EU)から招聘を受けた研修プログラムに参加するのを機に、私はそれまでのニュースキャスターという職を辞し、一人の学生として三十路のスタートを迎えました。

 日本を離れる際は、随分と多くの方々からご心配の声を頂きました。私の場合、仕事を辞すという意味ではNHKを離れた際にも、「組織を飛び出して成功した例などほとんど無いのだから、やめた方が良い」などといったご忠告を数多く頂きました。ただ私としては、その人の人生の成功・失敗を判断できるのはその人本人のみであり、更に人生の成功とは何かといえば、それは自分の納得のいくような人生が生きられたか否かであると思っていましたので、自分の決断を通させて頂きました。しかし、キャスターそのものを辞し、日本も離れるという今回の選択に対しては、そのときにも増して多くの近しい方々から、否定的なご意見を頂戴しました。

 「一旦キャスターを辞めてしまったら、たとえ帰国してももう一度同じ番組では使ってくれないんじゃないかね」とか「生き馬の目を抜くテレビの世界で、一年も日本を留守にしたらもう君のことなど、みんな忘れてしまうよ」とか、皆さん親身になって私の行く末を慮って下さったのだと思います。ただその頃の私にとってキャスターという仕事は、その魅力以上に、懐疑に満ちたものとなっていました。

 他人を客観的に評価するということはただでさえ難しいことですが、キャスターである以上、その時々の事象に対してたとえ専門外のことであっても何かしらコメントをしなければなりません。しかも、まだ二十歳台で経験も能力も満足に持ち合わせていようはずもない自分が発したコメントでも、公の電波に乗れば多くの人々に影響を与えてしまいます。そうしたことへのおこがましさやプレッシャーに日々押し潰されそうで、果たしてこの仕事を続けていいものかどうか、当時の私は始終自問自答していました。

 しかもその仕事は、たかが一年離れていただけで自分の価値がなくなってしまうようなものだという。一年いなかったら忘れ去られてしまうのだったら、キャスターとしての自分なんて所詮そんなものでしかなかったのだ、やはりここは思い切ってゼロから自分を見つめ直そう―そう決心した私は、身内をはじめとした「なんて勿体無いことを」というお叱りの声に送られながら、日本に戻ってきた際の仕事の約束など何一つ無いまま、単身渡欧したのでした。


 ささやかながらもそれまでの人生で社会的に築いたほとんどのものを捨て去って暮らし始めたパリ―何の保証も無い代わりに、何の束縛も受けず完全に自由な私の生活がこれから始まる。さぞや心軽く清々とした気持ちですぐさま暮らせるようになるだろうと思いきや、現実はそう甘くはありませんでした。

 ちなみにパリの景色になじむ人々というのは、皆一様にシンプルで洗練されていて、すれ違いざま涼やかな風が起きるのではないかと思うほど颯爽としています。そんな人たちに混じって街を歩いたり、メトロ(地下鉄)に乗ったりするたび、私は耐えられない重ったるさを自分自身に感じるようになりました。なんだろうこの居心地の悪さはと思っているうちに、間もなく重いのは私の身体というよりも、心であることがわかってきました。なかなかこの感覚を言葉で表すのは難しいのですが、とにかくすごく無駄なものを自分が山ほど引きずっているという感じがして、重くて、うっとうしくて居たたまれないのです。

 心にも「贅肉」というものがあることを、初めて知りました。

 そこで手始めに、ハイヒールを脱いでみました。すると必然的に、フォーマルなスーツなどはあまり着なくなります。次第に化粧もほとんどしなくなりました。そうやって自分の身体を拘束したり、補正する様々なものから自分自身を一度解き放つことによって、無意識の内に自分をがんじがらめに縛っていた他人の視線から、私の精神は徐々に解放されて行きました。

 日本で気付かないうちにしこたま溜め込んでしまった心の「埃」、例えばつまらない見栄や周囲から規定されてしまった価値観などを少しずつ振り落として身軽になる、言わば心のシェイプアップ―これができると何が変わるかというと、それまで気にも留めなかった何気ない瞬間の中に、実はかけがいのない感動的なシーンが存在することに気付くことができます。

 たとえば、日本にいたときは見上げることすらほとんどなかった空。アパルトマンの窓越しに、偏西風に乗って一時として休むことなくその形を変えてゆく雲の流れをぼんやり目で追っていると、悠久の時の流れに身をゆだねているようで、スーッと大宇宙に自分自身が同化してゆくような気持ちになります。また夕暮れの雨上がり、家路を急ぐ人たちの靴音が響く石畳の舗道からフーッと湧き上がってくるたまらなく優しい空気には、このままこの大気の中に溶けていってしまいたいと思うくらいの至福の時を感じます。

 感動的なことに心から感動できる自分であること、幸せであることを本当に幸せと感じられる自分であること、それが人生にとって何より大切であり、それ以外に大切なものなんて世の中にはそんなには無いんだとわからせてくれ、またそんな自分を取り戻させてくれたパリで、私はもう一度生まれ直したという気さえしています。


 では、パリの人たちはよく物を捨てるかというと、これはむしろ逆です。ただそれは、捨てるべきものを捨てないのではなくて、捨てるようなものは初めから持たない、つまり選択の時点で捨ててしまっているからでして、パリジェンヌの友人いわく、「じきに捨てるようなものを買うなんて、よほど頭が悪いか、精神力が弱いか、そのどっちかだわ」

 本当に質の良いもの、自分の趣味にあったものを、心底納得のいくまで吟味して買う。多くの人がそういう購買行動をとるからこそ、売り手も作り手も一瞬として気を抜くことなく本物を追求する。だから良いものが生まれ、またそれを手に入れた人はより感性が磨かれて、更に丹念に物を選びより良いものを手にする。

 そんな好循環が生まれるパリで私は、とりあえず一度「捨ててみる」ことの意味を知りました。


 「捨ててこそ」本当に大切なものが何なのかわかる、なぜなら本当に必要なものは、決して捨てることなどできないから。


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